ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『あひる』今村夏子:著

 2011年に、『こちらあみ子』で鮮烈すぎるデビューを飾った今村夏子が、2016年に発表した「第二作」。表題作と「おばあちゃんの家」、「森の兄妹」との三篇の短篇からなる。

 先に、このあとに書かれた『星の子』を読んでいたわけで、デビュー作の『こちらあみ子』のこともそれなりに(わたしには珍しく)記憶しているのだけれども、当たり前のことというか、「やはり同じ作家の作品だなあ」とは思うわけだし、この『こちらあみ子』~『あひる』~『星の子』の連関は強く感じられ、この三冊で「三部作」と考えてもいいような気もする。
 そんな中でも、この『あひる』の「どこか薄気味悪い感覚」は、わたしの中では飛び抜けていて、今のところは、今村夏子ではこの『あひる』が、最高傑作ではないかという気がしている(このあと、『こちらあみ子』もまた読んでみるつもりで、そうするとやっぱり『こちらあみ子』がいちばん!と思うかもしれないが)。

 「わたし」の家で、あひるを飼うことになった。そのあひるの前の飼い主は、父の昔の同僚の「新井さん」。飼っていたあひるを手放すことになり、父が譲り受けた。あひるの名前は「のりたま」という。
 この小説で、名前が出て来るのはその「のりたま」と「新井さん」だけで、それ以外は「父」「母」「弟」、そして「男の子」「女の子」と書かれているだけだ。もちろん語り手の「わたし」の名もわからない。
 そして、すべての展開はその「わたし」による、徹底した一人称で描かれるのだけれども、この「わたし」、ある意味で「信頼できない語り手」であり、読み手は「わたし」の記述を考えて、あれこれと補足して読み進めることになる。

 ひとつのポイントは、そのあひるの「のりたま」が具合が悪くなって父が病院へ連れて行き、しばらくして戻って来るとそれは「別のあひる」になっているようだ、ということを二回繰り返し、これは「わたし」も感づいている。さいごの、三羽目のあひるは家で死に、「わたし」は墓をつくってあげるのだが(『こちらあみ子』での「墓」との関連を、考えさせられる)。

 あひるを飼うようになってから、父母の家は周辺の子どもたちのたまり場、集会所のようになってしまうのだが、子どもたちは「実はあひるは三羽だった」ということは認識していたようだ。

 そして、小説のラストで、結婚して家を出ている弟に8年を経て赤ちゃんが産まれ、父母の家に戻って来るということなのだが、そうすると姉である「わたし」は、おそらくは三十歳に近いかそれ以上なのではないかと思うのだけれども、いまだに医療系の資格を得るための試験を受け続け、連続して試験に落ちていて、それで「今まで働いたことはない」という。どうも「普通でない」。ほんとうに「わたし」は、試験に合格したいと思っているのだろうか?
 そのラストには「弟」が家に戻って来て、「子どもたちのたまり場」になっている家の現状について父母を𠮟りつけ、実はついに弟にも赤ちゃんが産まれたことをきっかけに、弟家族も父母の家に戻って来るというのだ。小説のラストでは、そのために家が改築されているさまが描かれる。
 そうすると、それまでの展開でこの父母の家の「力関係」は読めるわけで、つまりはこのあとは「弟」こそが「家長」の座に着くわけだろう。さてそうすると、父母に「寄生」しているような「わたし」の存在は、どうなるのだろうか?

 ‥‥というのが「ひとつの読み方」で、このステキな小説はそんな一面的な読み方を許すような作品でもなく、もっともっと奥深い。

 「おばあちゃんの家」と「森の兄妹」について書かなかったが、この二篇もまた、今村夏子らしい世界観を示す作品ではあった、と思う。