ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ハッピーエンド』(2017) ミヒャエル・ハネケ:脚本・監督

 相当にショッキングだったハネケ監督の前作『愛、アムール』につづいて、ジャン=ルイ・トランティニャンイザベル・ユペールとが父娘を演じた作品。ジャン=ルイ・トランティニャンはじっさいにこの作品で自分が『愛、アムール』の主人公と同じだったかのような過去を語り、あとで知ったのだけれども、この作品の役名「ジョルジュ」というのも、『愛、アムール』でのジャン=ルイ・トランティニャンの役名だったのだ。
 しかしこの作品がまさかすべてにおいて『愛、アムール』を引き継ぐ続編だというわけもなく、ジョルジュという初老の男の中に精神的に『愛、アムール』を引き継がせたもの。

 ミヒャエル・ハネケの作品には、観る人の心を凍り付かせるような「心理的恐怖」がある。とりわけわたしにはハネケの長編デビュー作の『セブンス・コンチネント』、第二作の『ベニーズ・ビデオ』が、あまりに強烈な体験だった。この2作はどちらも日本では劇場未公開だけれども、わたしは当時、日本で初めてハネケ監督が紹介された「ハネケ映画祭」みたいな特集上映会でまずは『セブンス・コンチネント』を観て、あまりの衝撃にその映画祭の残りのハネケ作品も全部観たのだった。そこには人間の持つ「暗い(真っ黒な)衝動」というものが恐ろしい力で映像に定着されていて、決してそれは「ホラー映画」ではないのだけれども、まさにその「恐ろしさ」に心の凍り付くような作品群だったのだ。
 その後わたしは日本で公開されたハネケ作品はすべて映画館で観ているが(この『ハッピーエンド』も公開当時に観ている)、少しづつ、さいしょの『セブンス・コンチネント』などの衝撃も映画的には薄まって来ているかな、とは思っていた。でも、『愛、アムール』には、そんなハネケ監督の初期の衝撃を思い起こさせられるパワーがあり、記憶に障害があるわたしでも、その『愛、アムール』のことはけっこう記憶している。
 実はそういうわたしの記憶障害もあって、それ以外のハネケ監督の作品も今ではまるで記憶されていず、この『ハッピーエンド』もおぼろげにラストシーンを記憶していただけ。

 前置きが長くなってしまった。『ハッピーエンド』を観よう。この映画はフランス南部、カリーに住むそれなりにリッチな、企業経営一族三世代のストーリー。先に書いたジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)が先代経営者で、今は彼は隠居して娘のアンヌ(イザベル・ユペール)があとを継いで経営実務にあたっている。アンヌには弟のトマ(マチュー・カソヴィッツ)がいて同じ邸宅に同居しているけれども、彼は家業は継がずに医師をやっている。トマは先妻とのあいだにエヴという13歳になる娘がいるのだけれども、先妻が急病で入院し(ここに裏の真実があるけれども)、エヴはトマのところに引き取られる。トマは今の妻との間にまだ幼いポールという幼児がいるが、実は別の女性と不倫していて、その女性となかなかにきわどい内容(ジェイムズ・ジョイスと妻のノラとが交わした手紙みたいなの)のチャットを交わしていて、そのチャットを娘のエヴは盗み見するのだね。
 アンヌに今は夫はいないが、ピエールという息子がいて一族の会社の重職についてはいるが、どうもまだ若い彼には荷が重すぎる仕事のようだ。食事の席でアンヌに「酒はやめなさい」といわれている。そのアンヌは契約銀行の弁護士といずれ結婚するようだ。
 つまりこの家族は今は7人での暮らしで、他に使用人としてモロッコ人夫婦(とその女の子)がいっしょの家に暮らしている。彼らは家族から抑圧されてはいないが、「ポリコレ的」とでもいうのか、微妙な視線で見られているようだ。

 ジョルジュは今は「自殺志願者」で(なぜ彼が「自殺志願者」なのかということが、『愛、アムール』と重なるのだ)、いちどは車を暴走させて自殺を試みるがそれで重傷を負い、車いすでの生活を余儀なくされている。
 家族でいちばん「家風」の抑圧を受けているのがピエールで、けっきょく企業の起こした「事故」の後処理がうまく出来ず解任され、町の移民らの入りびたるクラブで飲み遊ぶようになっている。
 エヴの母は病院で死に、エヴは自分が施設に入れられるのではないかとの恐れを抱くようになり、(それだけの理由ではないが)薬物を飲み自殺未遂する。父のトマはエヴが自分のチャットを読んでいることも知るし、「自分の手に負えない」と、祖父(トマには父になる)のジョルジュとエヴとを対話させる。
 この、ジョルジュとエヴとの二人きりでの対話こそ、この映画の核心といえばいいだろうか。観客はジョルジュの心の「闇」を知ることになり、実は家族のだれよりもエヴのことを理解していたジョルジュとエヴとの(かりそめの?)「結びつき」が生まれた、と言っていいのだろう。

 この映画には、大きな家族のイヴェントが二つ描かれていて、そのひとつはまずはジョルジュの85歳の誕生日パーティーで、実はそのときの音楽演奏者にトマは図々しくも自分の愛人を呼んでいたわけだし、まだこのときはエヴにとってジョルジュは「見知らぬおじいさん」だったこともわかる。
 もうひとつのイヴェントが、ラストのアンナの結婚披露パーティーなのだけれども、まずは移民らを連れて乱入したピエールによって「一族の破綻」があらわになるし、そしてさいごのジョルジュとエヴの「行動」へとつづく。

 まず思うのは、「人間的なあたたかみのない」一族であることよ、ということであり、そのことがひとつには、ラストのピエールの反逆であらわにされる。アンナの結婚の背景はわからないが、この映画をみただけでは、まるで一族企業の存続のために銀行弁護士を相手に選んだかのようにもみえる。
 そんな中でジョルジュの「わたしはひとつの<ヒューマン>でありたい、<ヒューマン>として死にたい」との声があまりに痛切だが、ではそのことを「手助け」するエヴがそんな<ヒューマン>の声を聞いていたかというと疑問はあり、ここでの彼女の行動は、ほとんどハネケ監督の過去作『ベニーズ・ビデオ』のベニーと変わるところがないのではないかと思う。

 映画の中でわたしがよく理解できなかったのが、いっしょに住んでいるモロッコ人家族の娘が飼っている犬(番犬である)にかみつかれたというシークエンスだけれども、これはひとつにエヴが新しくこの家に同居することになったとき、トマだったかがそのモロッコ人家族に「エヴの匂いをおぼえさせて、犬がエヴにかみつかないようにしてくれ」と話すところにつながっているのだろうけれども、それがどこかでこの一族の中でのモロッコ人の立ち位置に関係したものだったのだろうとは思うのだけれども、わたしには監督の意図が読めなかった。

 BGMもなく、出演者への感情移入を拒むような演出がつづき、そういう演出はハネケ監督の作品ではいつものことだとは思うが、この映画ではけっこうワンシーンワンカットの長いショットが目立った気がする(海水浴場でのエヴをとらえたショットとか)。
 あと、トマと愛人とのチャットがそのままノートパソコンの文字列を写して示されるのだけれども、そのノートパソコン映像が終わったあと、真っ黒い画面の左上に黄色いドットのような光が5つ並んで見え、「これって、やはりコンピュータ画面のドットなのかな?」と思っていたら実は、真っ暗な駐車場の中からの映像で、黄色い光は駐車場のシャッターの横長の「あかりとり」のすき間だとわかったときには、ちょっとずっこけた。ハネケ監督流のジョークだったか。