ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『The Seventh Continent (セブンス・コンチネント)』(1989) Michael Haneke (ミヒャエル・ハネケ):脚本・監督

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 わたしはその昔、それまで日本ではすべて未公開だったミヒャエル・ハネケ監督の全作品を一気に上映するという「特集上映」を観に行った。そのとき『コード・アンノウン』までの6本の映画作品はすべて上映されていた記憶があり、そのあとにカンヌ映画祭でグランプリを受賞した『ピアニスト』が一般公開されているので、そのハネケ作品の特集上映は2001年ぐらいのことだったのではないかと思う。
 それでわたしは「なんか面白そう」と、あまり内容も知らずにまずはこの『セブンス・コンチネント』を観たのだった。

 ‥‥わたしはもう、完全に打ちのめされてしまい、「これは全部観なくっては」と、そのとき公開されたハネケ作品をすべて観たのだったし、以後ハネケ監督はわたしの最も愛好する映画監督にはなった。しかし今でも、このハネケ監督の映画デビュー作『セブンス・コンチネント』の強烈さは忘れられないものである。

 いったい何が「強烈」だったのか? それは、この作品の映像的な主題が、まさに「破壊」ということだったからだろう。
 「破壊」といっても、それは社会的な「テロリズム」的な行為ではなく、もっとわたしたちの日常に深く関わる「破壊行為」だったからこそ、観るわたしなどにはショックが強かったのだ。そして当時はその「破壊行為」はひとつのパフォーマンスとして、この映画のことをわたしの中で「アート映画」とジャンル分けしたくなってしまうようなようなものだった。

 それで今回わたしは輸入盤のハネケ監督作品10枚組ボックスセットを買ったので、その盤を英語字幕で観たわけだ(ちなみに、『セブンス・コンチネント』の国内版DVDは今は品切れで、ほぼ入手不可能になっているようだ)。

 映画の中でそんな「破壊行為」が行われるからと言って、登場人物が「反社会的人物」であるわけではない。映画に登場するのは、ごく普通の、おそらくちょっとリッチな夫と妻、そして10歳ぐらいの娘との3人家族。映画は「1987年」「1988年」「1989年」の三部構成になっているけれども、その1989年まで、わたしの感想ではその家族にそこまでに大きな事件が起きるわけではない。
 毎朝同じように家族で朝食をとり、夫は靴ひもを締め出勤し、夜には歯を磨き、娘は毎晩のようにお祈りを唱えて眠りにつく。ただ、朝のラジオのニュースでは「イラン・イラク戦争」のことが伝えられたり、モスクワでのハイジャック事件が報道されたりはする。

 「何かが起きた」というのであれば、娘は学校で「眼が見えなくなった」との嘘をつき、そのことは教師から妻に伝えられる。妻は娘に「痛い目には合わせないから正直に言いなさい」と言い、娘が「噓をついた」と言ったとき、彼女の頬をぶつのだった。
 あと、妻の兄弟は精神を病んでいて、ようやく快方に向かって来ていたとはいえ、主人公家族が彼を夕食に招いたとき、食卓で突然に泣き崩れたりはする。
 そして1988年、家族の乗った車は交通事故現場のそばを通り、道路上でビニールに覆われて横たわる親子らしい遺体を目にする。そのあと家族の乗った車は洗車ステーションで洗車するのだが、そのときに妻は泣き崩れるのだ。
 この「洗車ステーション」というのは映画のオープニングもそうだったし、この映画の中で何度も登場する。おそらくは「浄化」という意味合いを持つものだろう。

 タイトルの「セブンス・コンチネント」のことを書いておくと、これはつまり「第7の大陸」の意味だけれども、一般にこの地球には6つの大陸があることになっている。ただ、ユーラシア大陸を「アジア大陸」と「ヨーロッパ大陸」とに分けて数えることもあるようで、そうすると世界には7つの大陸があることになる。
 この映画では「オーストラリア大陸」というのが物語のポイントになっていて、映画の冒頭で家族の車が洗車を終えて外に出ると、そこに大きな「オーストラリア」のポスターが貼ってあったわけで、1989年になって家族が銀行の全預金を払い戻すとき、「なぜ?」と問う銀行員に妻は「オーストラリアに移住するのです」と答える。
 ではその「オーストラリア」を「第7の大陸」と数えるのか、それとも、この映画のタイトルの「第7の大陸」とは、この地球上には存在しない大陸のことなのか、ということも考える(ちなみに、ハネケ監督はオーストリアの人であり、この映画は「オーストリア映画」である)。
 先に書いた「オーストラリア」のポスターの景観は、そのあとも画面いっぱいに2~3度登場するのだけれども、そこでは海岸に波が打ち寄せているのだけれども、よく見ると、この地形では「そのような波は起こり得ない」のでもある(この映画のポイントのひとつが、この「波が来るはずのない」地形の、オーストラリアの海岸の「非現実な絵」ではないかと思う)。

 さて、延々とこの映画の核心を書かないで先延ばしにしてきたのだけれども、実はこの家族は「心中」するのである。その「心中」の前に、夫と妻は徹底的に自宅内の自分らの所有物を破壊して行く。この「破壊シーン」は延々と、20分とか30分とか継続する。そのために様々な工具などを買いそろえていて、衣服はハサミで切り裂き、家具はハンマーで叩き壊す。「クライマックス」とも言えるショッキングなシーンがふたつあり、ひとつは室内で魚を飼育していた大きな水槽を叩き割るシーン。このときにだけ、それまで魚にエサを与えて面倒を見てきた娘が「No!」と反撥する。床に投げ出された魚たちは、だんだんに衰弱して死んでいく。カメラはそのさまを、冷徹に捉えていく。
 もうひとつのシーンは、「お金」をすべてトイレに流してしまうシーンだろう。銀行から払い戻し、車を売却して、そうやって手元にある紙幣を破いて、延々とトイレから流してしまう。最後には硬貨も流し捨てる。
 見ていれば、それまでの室内の家具調度品などの「破壊」には、家族の「自分たちの過去の遺棄」という意味があるものと了解するけれども、この「紙幣・貨幣」の遺棄という行為には、世界の「資本主義体制」を否定するような意志が感じられる。そこに、この映画を観ているわたしにも突き付けられた「問題」があるのではないのか、ということになる。

 実はこの映画製作の背景には、じっさいにオーストリアで起きた、この映画のモデルになるような家族心中事件があったようで、そのときに、トイレに捨てられた貨幣が流れきれないで残っていたことによるという。

 映画では、「いったいなぜこの家族は<心中>を決意したのか」ということはこれっぽっちも説明されず、ただその「行為」だけが提示される。ここにこの映画のインパクトの強さがあるだろう。

 このDVDには「特典映像」としてハネケ監督へのインタヴューが見られるのだが、その中でハネケ監督は、「I think this film is as easy to understand in Japan.」と語っている。
 むむむ、日本人であるわたしが、こうやってこの映画にノックアウトされたのだから、ハネケ監督の洞察は正しいのかもしれない。しかし、今は日本でこの映画を観ることが非常に困難になっていることは悲しい。

 もうちょっと、どうでもいいことを書けば、確かに日本でこういう「一家心中」というのはけっこう起きる事件ではないかと思うのだけれども、日本ではこうやってわざわざ家具調度品を破壊したり金銭を廃棄する前に、手軽く(?)火を放ってみんな焼き払ってしまうことだろう。
 それはひょっとしたら、日本の家屋がたいていは木造で、焼き払うのが容易かったからかとも思ったりするけれども、まあそういうものでもないだろう。やはりこの映画で重要なのはその「破壊行為」の連続であり、それゆえにこの映画が、わたしには「悪夢」のように忘れられない映画になっているのだ。この映画がもう、30年以上も前の作品だということが、今こうやって見返して信じられない思いがする。