ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『暗殺の森』(1970) ヴィットリオ・ストラーロ:撮影 ベルナルド・ベルトリッチ:脚本・監督

 イタリアのファシズムの興隆期、そしてその終末という時代を背景に、ファシズムに協力したひとりの男を描いた作品。原作はアルベルト・モラヴィアで、今は『同調者』のタイトルで文庫版邦訳も出ている。主演はジャン=ルイ・トランティニャンで、ドミニク・サンダステファニア・サンドレッリ共演。ベルナルド・ベルトリッチ29歳のときの監督作品で、撮影監督は、以後1993年の『リトル・ブッダ』まで、たいていのベルトリッチ監督の作品で撮影を担当したヴィットリオ・ストラーロ。音楽はほとんどのトリュフォー作品で音楽を担当していたジョルジュ・ドルリューで、キャスト、スタッフ皆が素晴らしい仕事をしている。

 映画は時系列順には描かれず、フラッシュバックで主人公の過去を描いたりしているのだが、ここでは時系列順に書く。
 主人公のマルチェッロ・クレリチ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は没落しつつあるイタリアの貴族の出身。少年期に同性愛者だった家の運転手のリーノに襲われ、リーノの持っていた銃で彼を射って逃亡したという、人に隠した過去がある。

 そんな殺人の過去から逃れるため、また自分が同性愛者なのではないかという疑念からか、社会に出たマルチェッロは「正常な感じ」、そして「ただ普通の生活」を求めて、プチブル家庭の出の(平凡で少々軽薄な)ジュリア(ステファニア・サンドレッリ)と結婚し、反ファシスト分子を弾圧する秘密警察員になる。
 秘密警察に入ってさいしょに、マルチェッロは大学での自分の恩師だったクアドリ教授(彼は反ファシスト運動の主要メンバーで、パリに亡命していた)の周辺を探ることを提案し、認められて彼自身が新婚旅行がてらにその任務にあたることになる。さいしょは「偵察」だった指令は、彼の出発時に「暗殺」と変更になり、彼をサポートする秘密警察員マンガニエーロ(ガストーネ・モスキン)もパリへと行く(これは1938年のこと)。

 パリでクアドリ教授と会うマルチェッロだったが(教授はマルチェッロのことを記憶していた)、クアドリの若く美しい妻のアンナ(ドミニク・サンダ)に強く惹かれる。クアドリ夫妻とマルチェッロ夫妻は共にダンス・パーティ―に出かけたりして親交を深め、アンナはマルチェッロを誘惑するようでもあるが、マルチェッロの正体に気づいているようでもある。
 クアドリ教授が出かける途中の森の中で暗殺を決行することが決まり、マルチェッロはアンナと話し、そのときにアンナが夫に同行しないように仕組むのだが、その当日、マルチェッロの意に反してアンナは夫と同行するのだった。マルチェッロはマンガニエーロと車でクアドリ夫妻の車を尾行する。
 マルチェッロの車の前に別部隊があらわれてクアドリ教授を車からおびき出し、彼を刺殺する。逃げるアンナは後ろの車にマルチェッロがいるのを認め、マルチェッロの車の窓を叩いて助けを求めるが、マルチェッロは表情も変えず彼女を助けも殺しもせず無視をし、アンナは暗殺隊に射殺される。
 そんな優柔不断なマルチェッロを見たマンガニエーロは「卑怯者が! 卑怯者とホモとユダヤ人は大っ嫌いだ!」と彼をなじるのだった。

 時は移って1943年7月、マルチェッロはアパートメントのような家でジュリアと男の子(4歳ぐらいなのだろう)と暮らしている。ラジオではムッソリーニの辞任とバドリオの首相就任のニュースが語られている。ファシスト政権の終わりである。
 マルチェッロはかつての盟友のファシスト党員に会いに外に出るが、そこで道ばたで若い男を誘っているのがあのリーノだと気づく。彼は死んではいなかった。マルチェッロはリーノが自分にしたことをなじり、クアドリとアンナを殺したのもリーノだといい、「ファシスト!」となじる。出会ったファシスト党員のことも、行進する民衆に「こいつはファシストだ!」と怒鳴る。
 民衆が去ったあと、マルチェッロはリーノが誘いをかけていた男のそばにいる。そこには格子がかかっていて、まるでマルチェッロは牢屋にいるように見えるのだった。

 マルチェッロはまさに、自分が犯したと思っていた「殺人」から逃れるために結婚し、ファシスト党の秘密警察員になっているのだが、同時に「自分は同性愛者ではないだろうか」という疑念から逃れるためでもあったのだろう。
 それは自分を「多数派」の中に置くことで、ファシスト党がマジョリティであったからファシスト党のために働くが、「もうファシスト党の時代ではない」となったとたん、古い盟友も「ファシスト!」と侮蔑するのだ。
 おそらくこのラストは「もう自分には自分のことは隠しようがない」と悟り、ファシスト党員、ホモフォビアというそれまでの生き方の「真逆」を選ぶのだろう。

 彼が求めた「普通」というものは、つまりは「マジョリティ」ということであり、時代の転換期にはマジョリティの中身もすぐに変化があるし、自分のアイデンティティーを探ることなしに価値観としてマジョリティの仲間になることを求めても、実はそれは彼とは隔離されている世界なのかもしれない。彼の中にはもっと違った価値観への欲求が渦巻いていただろうか(アンナに惹かれたように)。それが彼の「優柔不断さ」ではなかっただろうか。

 この映画のことを思うとき、何といってもヴィットリオ・ストラーロの撮影のことを抜かすことはできない。その光と闇、そして色彩の鮮やかな表現のこともあるけれども、特に室内の撮影での「方形(四角形)」への偏重が目にとまる。その方形は「窓」であったり「ドア」であったり、絵の額であったりするのだが。その方形を構図として印象的に活かしながらドラマが進んで行く。
 その方形には意味があるだろうか? 観ているとそれはじっさいに「窓」であったりするが、やはり「窓」を想起させられる。それは、主人公マルチェッロが実は「世界」の中にダイレクトに入ってはいなくって、「窓」越しにしか関わっていないという意味を持たされているようにも思えた(その象徴的な場面が、これは「方形」ではないけれども、車に乗ったマルチェッロと、彼に助けを求めたアンナとを隔てる「車の窓」ではあっただろう)。