ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『桜桃の味』(1997) アッバス・キアロスタミ:製作・脚本・編集・監督

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 これまた、昨日観た『オリーブの林をぬけて』のような「メタ映画」的なものになっていた(そのことはラストまでわからないのだけれども)。

 中年の男が(あとで、バディという名まえだとわかるが)、おそらくはテヘランと思える市街地の中を車を走らせている。カメラは助手席の位置からずっと、その運転するバディを捉えている。彼は車のスピードを落とし、左右に目を配らせて誰かを捜しているように見える。そんな彼の車に街をさまよう男たちが「オレに仕事をくれ!」と寄って来るが、バディは無視する。
 そのうちに車は郊外の何もない荒れた丘陵地帯を走るようになり、道を歩いていた若い男がバディに「乗せてくれ」と言う。男はクルド人で、2ヶ月前に兵役に就いたばかりだと言い、兵舎に帰るのだと言う。
 バディは「兵舎に帰る前に、ちょっと仕事をやってくれ、その仕事の場所を見てくれ」と車を走らせる。

 バディはジグザグの道の1本だけ木が生えているところで車を止め、「この道のすぐ下に穴がある。オレは夜のうちにその穴に横たわって寝ている。明日の朝の6時になったらこの場所に来て、石を投げてくれ。もしもオレが起き上がったら助け出してくれ。もしも返答がなければ、穴にシャベルで土を20杯かけてくれ」と言うのだった。つまりどうやら、バディはまだるっこしいやり方で自殺しようと考えているらしい。
 兵士は「そんなことはオレには出来ない」と、バディのすきを見て逃げ出してしまう。
 
 次にバディは丘の中腹にある、コンクリートを造る機械を見張るための小屋にいる、見張り役の男に出会う。アフガニスタン出身という男は、バディが「ちょっとオレとドライヴしないか」という申し出を「見張り役だから」と断るが、近くに同じアフガニスタンから来ている彼の友だちの神学生がいるから、彼を誘えばいいと言う。
 バディはその若い神学生を車に乗せて、車の中で「仕事」の話をするが、神学生はコーランなどを引用し、神の意志に逆らう自殺は認められないと、やはり車を降りてしまう。

 そのあとにバディが乗せたのは初老の男。彼はバディに「君はトルコ人ではないから」と話をし、トルコ人なのかと思えたのだが、これはひょっとしたら翻訳の間違いで、Wikipediaで見るとこの男は「トルクメン人」なのであるが。 男はバディの話を了解はするのだが、「でも自殺は良くない。わたしの話を聞いてくれ」と、しばらくバディに語りかける。その男もかつて自殺を考えたことがあり、夜に桑の木に登って枝に縄をかけようとしたのだが、そのとき桑の実に手が触れ、ついそれを食べたらあまりに美味しかったので、二つ、三つと手を伸ばした。そのうちに日が昇り明るくなり、あたりに子供たちの声が聞こえ始めた。あのときわたしは生まれ変わったのだという話。さらに、生きていればいいこともある。空の満月を見る、桜桃の実を食べる、そういう喜びもあるだろうと語る。
 
 バディは彼が働くという博物館まで彼を送って行き、「明日の朝はよろしく」と別れる。
 しばらく車を走らせ、急に気が変わったのかバディは車をUターンさせ、博物館に戻ってさっきの男を捜す。
 ここでバディは、男が「剥製師」で、ウズラを殺して剥製をつくっているのを見る。男を呼び出し、「あなたは鳥を殺しているのか?」と聞く。「それが仕事だからね」との答え。
 改めてバディは明朝の約束を確認し、名前を呼ぶだけでなく石を投げ、わたしの肩を揺すってほしい、目を覚ますかもしれないから」と言って別れる。

 そのあと、稲妻の光る夜道をバディはその穴のところへ行き、穴の中に身を横たえる。夜空には雲の向こうに満月が見える。暗闇の中、バディはずっと目を開いているようだ。

 ここで急に昼になり、映像はフィルムではなくラフなヴィデオ映像である。映画をを撮影しているクルーの姿があり、バディ役の男がタバコを片手に、スタッフと握手している。道を行進していた兵士らが道ばたに座り込んで休憩をしている。ジグザグ道を車が進んで行き、見えなくなって映画は終わる。

 ネタバレも何も、映画のことだいたい(わたしの観たかぎりで)全部書いてしまったが、いろいろとキアロスタミ監督らしい「問題大あり」の作品だと思った。

 まず、バディが車に乗せる3人の男が、クルド人アフガニスタン人、そしてトルクメン人だというところに、イランからみた大きな意味があるだろう。そもそもイランという国自体がこのときホメイニ師を長とするイスラム政治の国なわけで、国内的にはクルド人らは反乱を起こして制圧されているし、これは調べたらトルクメン人も同じだったようだ。また、アフガニスタンの人々もイランとの国境で攻撃され、イラン国内のアフガニスタン人は迫害を受けているという。
 そんな人たちを「自殺願望のイラン人」のバディの自殺ほう助させようとするこの映画、いろいろと「政治的」にもヤバいのではないかと思えてしまう。

 わたしはこのことが、映画ラストの唐突な「これは映画だから」という演出と関係しているようにも思える。「政治的主張、政治的意図」があっての映画ではなく、見ての通りの「メタ映画」なのだから、というのではないだろうか(これはわたしの「深読み」し過ぎの可能性が強いが)。

 もうひとつ、ストーリーの上でも、「はたしてバディは自殺を決行したのか、それともトルクメンの剥製師の話を聞いて自殺を回避したのか」ということを、このラストでどっちつかずにしているというか、キアロスタミ監督としては「答えを出している映画ではない」ということなのかもしれない。
 ただ、「自殺を肯定する映画」というわけにはいかないので、トルクメンの剥製師の話の中に「生きる希望」を読み取ってほしいというのはあるだろうが、そんな剥製師も、そんなことを語りながらもウズラを殺す仕事をやっているわけだ。
 映画の中で博物館に引き返すバディは、剥製師を別れたあとに「自殺はやめよう」と考え直して、そのことを剥製師に伝えようとしたのではないかと思うが、剥製師もけっきょくはそんな殺生を仕事にしていると知り、また「自殺」へと傾いたように見える。

 まあ、そもそもを考えれば、このバディという男、自分の自殺にそんな手伝いを求めたというところで、何かを他者に期待しているようには思えるわけだが。みんなもこの映画を観て、それぞれの結論を出してみていただきたいものだ。