ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ダゲレオタイプの女』(2016) 黒沢清:脚本・監督

 この映画は日本公開当時に映画館へ観に行っていて、その時の感想も古い日記に残っているのだけれども、それが何ともたよりのない文章で(それはいつものことだが)、いったいこの映画をわたしがどのように観たのか、そのあたりのことがさっぱりわからない。肝心の「わたしの記憶」自体が例によって消えてしまっているわけで、もうこの映画についてはこうやってこの日にまた観るまで、「どんな映画だかまるっきしわからない」というところなのであった。
 それでこの日ようやくまた観たのだが、想像していた映画とはまるで違っていた(というか、どんな映画なのか想像することもほとんど出来ていなかったのだが)。

 映画は「ダゲレオタイプ」という写真初期の技術にのめり込む男とその妻、娘、そして男の助手となってだんだんに娘に惹かれて行く男との物語だった。
 写真を撮る男ステファンはまさしく「自分の表現、技術にのめり込む」アーティストで、妻はその犠牲となって自殺したというが、男の住む郊外の古い屋敷には時に、青いドレスを着て彷徨う妻の亡霊の姿が見られる。今は娘のマリーをモデルとして「ダゲレオタイプ」写真を撮り続けるが、その助手としてジャンという若者が雇われるのだった。

 このジャンという男、ステファンの弟子として自らも「ダゲレオタイプ」にのめり込むというのではないのだが、ただ「自立したい」という気もちは強く、それは知人から聞いた「キミがステファンを自分の屋敷を売却することに同意させるなら、キミにも大金が入るだろう」ということにしがみついている。
 そんなとき、マリーがジャンとステファンの前でスタジオの階段から転げ落ち、ジャンが車に彼女を乗せて病院へと向かうが、途中で元気になった(!?)マリーをそのまま自分のアパートへ連れて行き、ステファンには「マリーは死んだ」ということにする。これもステファンに屋敷を売却させるための方便ではあったが、以後ジャンはマリーとの生活の中でマリーへの愛情を強めるのだった。
 屋敷の権利書を見つけたジャンは、そこから屋敷売却の書類を偽造する。また、絶望したステファンは自殺しようとするが。

 映画の始まりでは「ジャン」という男に感情移入して、それまでのステファンの行動が暴かれるような映画かと思っていたのだが、そういうのではなく(もちろん、ステファンの行動も暴かれるが)、ジャンという青年自体がマリーを愛しているとはいえども、ステファンの中に描かれた「芸術家のエゴ」を引き継ぐような男ではないし、ただステファンの屋敷を売却して儲けたいというだけの人間のように見えてしまう。
 そういう人間性は、これだけの映画の主人公的な位置にある男にとってどうなのか、とは思ってっしまったのだが、それはここには書かないこの映画のラストまで観れば、映画が「ジャン」という男に何を求めているのかがわかることになるだろう。
 そういう意味ではこの映画のほんとうの主人公は「ステファン」ということにもなり、彼の「ダゲレオタイプ」という「写真装置」が、彼の妻と娘という二人の女性の「生命」を吸い取ったのだということで、そのあとにあらわれる「亡霊」のこともあり、この映画はまさにフランス的な「怪奇幻想譚」とは言えるのだと思う。そう観て行けば、終盤のジャンの行動はまさに「自らを知る」行動なのであり、この映画すべてをこのジャンの視点の中に収めて捉え直さなければならないという、ちょっとワンクッション置かれた「怖いホラー映画」ではあるのだと思う。
 そのあたりの「ワンクッション置く」という観方もけっこう大変というか、表面的に観てしまえば「もの足りない」映画になってしまっているのではないかと思う。そういうのでは、観る人に「映画の観方を問う」ような映画ではあったと思う。