ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『友だちのうちはどこ?』(1987) アッバス・キアロスタミ:脚本・編集・監督

友だちのうちはどこ? [DVD]

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  • ババク・アハマッドプール
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 イランの人名とか地名は憶えにくくって、観終わったあとにWikipediaのお世話になりました。

 この作品がキアロスタミ監督作品の日本初上映だったはずで、多分東京では1993年にユーロスペースで公開されたんだと思う。わたしも、こういう単館ロードショーの作品はけっこう観ていたし、おそらくその前に予告編を見て「面白そうだな」と思って観に行ったのだと思う。

 とにかくあのホメイニ師のイランですからね、映画を撮るというのも規制や検閲が入って大変なことで、「子供の話なら可」ということでこの作品を撮ったらしい。

 映画は小学校の教室から始まるけど、日本でいえば小学2年生ぐらいの子たちじゃないかと思う。先生が皆が宿題をやって来たかどうかチェックするんだけれども、ネマツァデという子は宿題をノートに書かず、バラの紙に書いて来て先生にこっぴどく叱られる。先生は「なぜノートを使わなければいけないか」とかくどくどと話し、ネマツァデがノートを使わなかった理由をしつっこく聞く。ネマツァデはいとこの家にノートを忘れたせいだというけれども、先生はネマツァデに「今まで何回同じことをやった?」と聞き、ネマツァデはもう泣きながら「3回」と答える。先生は「3回なんて許せないことだ。もう一度やったら学校は退学させるから!」という。

 主人公の少年アハマッドは、ネマツァデのとなりの席の子で、ネマツァデとは仲がいい。授業が終わってアハマッドがネマツァデといっしょに歩いていると、ネマツァデが転んでしまい、バッグの中の教科書やノートが飛び出してしまう。アハマッドはネマツァデに拾ってあげるのだけれども、実はこのときにネマツァデのノートを持って帰ってしまう。
 帰宅してそのことに気づいたアハマッドは、この日のことを知ってるから「ネマツァデにノートを持って行ってあげなければ大変だ」と思うわけだ。

 しかしアハマッドのお母さんはアハマッドの言うことをよく聞かないで、とにかく自分の宿題をして家の手伝いをしなさいと。お母さんだけでなく、そばにいたおじいさんもまた、タバコを持って来てくれとか言うのである。

 何とかネマツァデのノートを持って家を出たアハマッドはしかし、ネマツァデの家がけっこう遠いとなり町のポシュテだということは知っていたが、そのポシュテのどこにネマツァデの家があるか知らないのだった。
 ということで、アハマッドくんの大冒険が始まるのだ。

 アハマッドはいろんな人にネマツァデの家がどこか聞くが、知らない人が多かったり、知っていても違う「ネマツァデ」だったり、「このあたりの家はみんなネマツァデだよ」と言われたり。
 もうあたりも暗くなり、ようやく「あの向こうに見える一本の木のそばの青いドアの家がそうだよ」と教えられて行くけれども、そこにいたのはドアをつくる職人のおじさん。
 アハマッドが「ネマツァデという子の家を探してる」というと、おじさんは「そのネマツァデなら5分前までここにいたんだけどね」と言い、アハマッドに「家を教えてあげるからいっしょに行こう」と言う。
 しかしおじさんは歩きながら自分のこととかをひっきりなしにしゃべり続けるし、歩くのがとってもゆっくりだ。アハマッドは「おじさん、もっと早く歩いてよ」と何度も言う。
 それでようやっと「ここの階段の下の左の家だよ」というところに来て、ひとりで階段を降りて行ってみると、その家はしばらく前に訪ねていて「ちがう家」だった。

 こ~んなことがあって、アハマッドはけっきょくネマツァデにノートを渡せずに自分の家に帰り、宿題をやるのだった。

 翌朝、また先生が皆の宿題をひとりずつチェックしはじめる。アハマッドはこの朝、遅刻してまだ教室に着いていない。先生がもうすぐ自分のところに来ると、もうネマツァデは泣き始めているのだ。そんなとき、アハマッドが遅れて教室に入って来るのだった。さて結末はどうなるのか?

 長々と書いてしまったけれども、やはりこのアハマッドの「友だちのうち」探しはあまりに面白かったのだ。
 ポシュテ地域へ行くにはジグザグになった丘に登る道を行かなければならないし、それから林を抜けると、どの区画を切り取っても「絵」になるような集落が並んでいる。そしてその集落は立体的に組み合わさっているというか、階段がいっぱいあって、上の二階の家へ行ったり、家の下をくぐって行ったり出来るのだ。
 こういう家並みはイランでは普通なのかもしれないけれども、わたしなどはなぜか見とれてしまうのだった。

 アハマッドが出会う大人たちがみ~んな「意地悪」というわけではないのだろうが、お母さんはアハマッドの話を聞かずに家事を手伝わせようとするばかりだし、町で会う人も会う人ごとに言う事がちがっていて、誰も信用できない感じ。
 でもアハマッドといっしょに歩いたおじさんは、のんびりしていたとはいえ、途中で水汲み場のそばの花を摘んでアハマッドに渡し「挟んで置きなさい」という。この花が、映画の「オチ」で出て来てホッコリとするわけだ。

 別のところで読んだのだが、こうやってアハマッドのまわりの大人たちがまるで意地悪みたいなのは、キアロスタミ監督の、隠されたイランへの批判の意志が込められているらしい。「子供の話なら可」とされたことへの仕返しなのか。
 それでやっぱり、「子供の話」なのだから、出演している子供たちがみんな、アハマッドもネマツァデもかわいいのだ。特に主人公のアハマッドは「どこか頼りない」というか、「これで本当に<友だちのうち>へたどり着けるのだろうか?」と、観ていても自分が保護者になったように心配になってしまうのだった。