ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『トラベラー』(1974) アッバス・キアロスタミ:脚本・監督

 72分と、比較的短い尺の映画。わたしは日記の方にはこの映画がキアロスタミ監督の「長編デビュー作」と書いたけれども、この前年の『経験』という作品も60分の尺はあり、どういう内容かはわからないけれども、そちらも「短篇」とは言えない気もする。

 初期のキアロスタミ作品は、この前後の短編映画のタイトルをみても、「子供たち」をメインに捉えた作品が多いように思える(『放課後』『できるよ、ボクも』『休み時間をどう過ごそう』『先生への賛辞』などなど)。この『トラベラー』もまた、主役は小学校高学年の男の子で、『友だちのうちはどこ?』の男の子より年上のようだ(あ、10歳って書いてあった)。このあたり前に書いたように、検閲の厳しいイランでは「子供の映画」なら撮りやすいということもあったのだろうか。

 主人公ガッセムの住む町はそれなりに大きな町のようだけれども、首都テヘランへは夜中のバスに乗って夜明けどきに到着するみたいだから、テヘランを東京とすれば仙台ぐらいの距離のところなのだろうか?
 ガッセムは何よりもサッカーが大好きな少年で、学校の授業時間も忘れて町の空き地で友だちらとサッカーの試合をやる日々。学校はさぼりがちで、先生の話ではいちど落第してもいるらしいが。今も、授業に遅れたときにあごに白い布を巻き「歯が痛かったので遅れた」とかウソの言い訳をしたり。

 サッカー熱が嵩じたガッセムはついに、テヘランにじっさいのサッカーの試合を見に行きたいと強く思うようになる。そのためにはバス代、チケット代など、300リアルぐらいのお金が必要だ。
 まずは家で、お母さんが教会へ持って行く50レアルを絨毯の下に隠したのを目にして、それを盗んでしまう。
 盗まれたことに気づいたお母さんは学校へ行き、先生に訴える。先生はガッセムを呼び出し、お母さんのいる前で「おまえが家のお金を盗んだんだな!」と責めるが、ガッセムは否定する。先生は「白状するまでムチでお前の手をぶつぞ」と、何度も何度もガッセムの手をムチでぶつ。それでもガッセムは「やってない」とさいごまで言い張る。

 このあたり、家庭内の「しつけ」の問題を学校に持ち込んでしまうお母さんも「家庭教育放棄」とも思える(お父さんはガッセムのことは放置だ)。学校の先生も「家庭環境こそが原因だ」と言うわけだが、ガッセムがやったとわかっていても教育者として諭すでもなく、ただ体罰に頼るというのは情けないだろう。しかし何度も手をムチ打たれてもさいごまで「やってない」と言い張るガッセムも、悪ガキだが根性がすわってるというか、どうもその将来が心配である。家族と教師の教育の失敗だろうか。

 盗んだ50レアルではとてもテヘランへ行けないわけで、まずは学校で使っている万年筆を洗って「新品だ」と言って売ろうとするが、もちろん誰も買わない。
 クラスのとなりの席のアクバルも誘って、次にフィルムの入っていないカメラを持ち出して、街頭で子供たちに5レアルで撮影してあげるフリをする。写真は明日渡す約束にするが、「カメラがぶれて撮影出来てなかった」と言い訳するつもりである。それでも50レアルほどの金にしかならない。
 次にガッセムは、皆のサッカーチームでゲームに使っている小さなサッカーゴールと、サッカーボールを売ってしまうことにする。ガッセムのものではないし、そんなことをしたらあとでエライことになるというのに、もうガッセムには目先の「テヘランへ行ってサッカーを見る」ということしか考えられないようだ。
 とにかくそのゴールとボールを250レアルで売ってしまい、つまりテヘラン行きの資金は出来たわけだ。

 まずは夜中の11時に出発するバスのチケット100レアルを買い、ガッセムはウチに帰る。暗くなってアクバルがガッセムの家の下に来て、ガッセムに「(ボクの代わりに)試合をよく見て来て」と伝える。
 夜、ガッセムはバス乗り場へ行き、危うく乗り遅れるところでバスに乗り、テヘランへ向かう。
 陽がだんだん上って来て、テヘランに着く頃には明るくなっていた。

 競技場には当日券(50レアル)を買おうとする人がおおぜい並んでいる。何と、ガッセムのちょうど前で当日券は売り切れてしまう!
 ガッセムは何と、あたりにいたダフ屋から200レアルでチケットを買ってしまう。後先考えないというか、もう帰りのバス代もなくなってしまったわけだ。どうするつもりなのか。

 あこがれの競技場に一度は入場して、なかなかイイ席もゲットしたけれど、試合開始までにはまだあと3時間もあるのだという。ガッセムは「時間つぶし」というか、せっかくテヘランに来たのだからというつもりか、となりの人に自分の席はキープしてもらって、競技場の外に出るのであった。‥‥もう、結末はわかったも同じであろう。

 キアロスタミの演出は実にしっかりしているというか、尺が短いとはいえ、見飽きることもなくテンポよくストーリーは進展して行く。そんな中で、印象に残るシーンもいろいろと心に残っている。
 まず、子供たちに嘘をついて写真を撮ってやってるフリをするとき、カメラに向かって笑顔を浮かべて並んでいる子供たちの表情がステキだ(騙されているのだがね)。そして故郷の町でガッセムがバスのチケットを買ったあと、走って来た馬車のうしろに飛び乗ってしばらく走るシーンの映像がいい。道路に写る馬車の影、はみ出したガッセムの影。
 テヘランに着いてからの、競技場へ入るまでのドキュメント・タッチの映像もわたしは好きだし、その競技場を出てからいろいろなところへ行くガッセムの体験は、例えサッカーゲームは見られなくってもこういうところを見て歩いて良かったんじゃないの?みたいな感じで、あたりはみんなスポーツ施設が並んでいるようで、ガッセムはボクシングの試合場のセッティングしているところを見る。そのあとは水泳プールを窓の外から見て、中の少年に声をかけるけど、少年にはガッセムの声は聞こえない。どこかこういうところに、ガッセムテヘランの街との距離感があるのかもしれない。

 実はラストのことを書いてしまえば、ガッセムが競技場に戻ったとき、すでに試合は終わってしまっていて(ガッセムは日陰で眠ってしまうのだ)、観客席のあたりに散らかる紙屑らを、掃除の人が片付けているところだった。このシーンでガッセムはどんな心持ちだったことだろう。そういうガッセムの心を、舞い散る紙屑が示しているようでもあったが。

 そんな目に遭っても、映画には描かれていないけれども、ガッセムは故郷の町に帰らなければならないし、もうバス代も持っていないはずだ。どうやって帰るのか?(まあ警察の世話になるのだろうが)
 ガッセムが無断で家を出て外泊したことを両親がどう思うか、どう反応するかはわからないが、5レアルで写真を撮ってあげたと嘘をついた子供たちにも立ち向かわなくてはならないし、何よりもサッカー仲間のサッカーゴールやボールを勝手に売ってっしまったことがタダですむわけもない(これはガッセムも昼寝したとき、皆にボコボコにされる夢を見るのだったが)。

 ただ「じっさいにサッカーゲームを競技場で見たい」と願うことが嵩じて実行に移してしまい、まさに「苦い思い」をするガッセム。この出来事で何を思い、何を学ぶだろうか? そういうことが「成長する」ということだろうか。ちょっとシニカルなあと味の作品だった。あと、イランの民族楽器「サントゥール」などを使ったであろう、民族音楽風の音楽もとっても良かったのだった。