ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2023-05-18(Thu)

 今日も好天で、東京でも夏日になるという。昨日考えたように、午前中にとなり駅の映画館にイエジー・スコリモフスキ監督の『EO イーオー』を観に行くことにした。
 今はどこの映画館もそうだろうけれども、となり駅の映画館も一日に一つのスクリーンに時間ごとに上映作品を切り替え、いくつもの映画を上映するシステムになっている。今日は『EO イーオー』は朝の10時20分からの上映1回だけで、朝型のわたしには都合のいい時間だ。上映は午前中で終わるようなので、そのまま帰宅しても12時半ぐらい。外食とか考えなくっても帰宅してから昼食を取れるのもいい(なるべく外食はしたくないのだ)。これが夕方とか夜の上映になると、映画が終わる時間からは家に帰るのが遅くなるとか考えてしまって逡巡してしまう。

 今日は18日で「8」のつく日なので、となり駅にもあるスーパーでは全品5パーセント引きの日だから、買いたいものもあるのでちょっと早く家を出て、先にそのスーパーへ行って買い物をしようと考える。
 それで9時ちょっと過ぎに家を出た。となり駅に着いても9時40分ぐらいだったので、買い物にちょうどいい時間だろう。

     

 その足で映画館と反対側の出口を出てスーパーへ行ってみると、なんと、開店は10時なのだった! ウチの近くのスーパーの開店が9時なので、すっかり「店というものは9時開店なのだ」と思い込んでいた。10時の開店まで待って買い物をすると映画の上映に間に合わないので、映画が終わってから買い物をすることにした。
 たしかに、駅前の商店街はどこも10時開店で、すっかり閉まっているか開店の準備をしているところだった。映画を観ながら飲むカフェオレのペットボトルを自動販売機で買い、ゆっくりと映画館へ向かった。

       

 すでに映画館はオープンしていて、いつものお気に入りのいちばん後ろの中央通路側の席をゲット、上映を待つ。

 この『EO イーオー』という映画、スコリモフスキ監督がブレッソン監督の『バルタザールどこへ行く』にインスパイアされてつくった映画ということで、『バルタザールどこへ行く』を観て大泣きした体験のあるわたしは、この映画でも泣かされるのだろうか? 映画が終わったときに涙ボロボロ状態だと映画館を出るのも恥ずかしい、電車の中でも映画を思い出して涙が流れたりしたら困るな、などと心配をする。

 しかし始まった映画はそういう演出ではなく、そりゃあちょっとは泣いたけれども、涙があふれて困るということはない映画だった。でも決してつまらない映画ということではなく、クールで斬新な演出が刺激的だったし、「人間と動物」のこと、さらには「映画」のことなどをあれこれと考えさせられた。もう一度観たいとも思える作品だった。

 映画館を出て、考えたように駅の反対側のスーパーへ行く。買いたいものは決まっていたのだが、普段来ないスーパーだから買いたいものがどこに置いてあるかわからず、店員さんに聞いたりした。
 あと、やっぱりウチに帰って昼食の準備をするのも面倒だし、買ったカフェオレもまだけっこう残っていたし、サンドイッチを買ったのだった。
 それから店頭でキッチン用品のセールをやっていて、自分でもキッチンに置ける棚を捜していたところだったのが、ちょうどいい大きさの金属製のラックがあったので、買ってしまった。

 帰宅してまだ1時ぐらい。こうやって午前中に出かけ、早い時間に帰って来れると「出かけた」という疲労感もまるでなくって、逆にリフレッシュ感もあった。
 出かけているときにはさほどに感じなかったけれど、さすがに昼を過ぎて部屋の中にいても暑くなってきた。3時ぐらいには、短い時間だけれどもエアコンを使ってしまった。

 テレビをつけるとこの日もいろいろなニュースがあったが、明日からのG7広島サミットへ向けてアメリカのバイデン大統領が来日し、岸田首相と会談をしたという。G7ではウクライナ侵攻をつづけるロシアや、覇権主義的主張をつづける中国に対抗してのサミットにもなるのだろうが、日本の岸田自民党はサミットに間に合わせようと「LGBTQ問題」「入管法改定」などをぶち上げたけれども、逆に日本は「人権」への意識の低い政府であることを世界に喧伝するようなことになったのではないか。サミットで「日本も人権問題をもっと考えて」とかの発言が出ると面白いが。

 国会で、施設収容中に死亡したスリランカのウィシュマさんをめぐり、「ハンスト、詐病だったのではないか」などとしゃべくって顰蹙を買っている維新の会の参議院議員、梅村みずほという人物は、維新の会も参議院法務委員から更迭するとしたようだ。しかし当人はその後も国会での発言を撤回しようとせず、「憶測でもデマでもなく、私には信念がある」と語っているらしい。
 ウィシュマさんの死亡は理念の話ではなく、「事実」なのである。そんなところに「信念」など通用はしないことは、高校生でもわかる。求められるのは自分の発言の「証明」ではないのか。さもなければ彼女は維新の会を出て、「ネトウヨの党」でも立ち上げてみればいいのだ。いつまでも呆れた話である。