ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『風が吹くまま』(1999) アッバス・キアロスタミ:製作・脚本・編集・監督

 前作までのように「メタ映画」的でもなく、一見ストレートに鑑賞できることにホッとしたけれど、「またどこかに企みがあるのではないか」とも思って観ていた。
 けっこうコミカルな要素も散見される作品で、観ながら声を出して笑ったり、クスクスと声をひそめて笑ったりした。

 映画は、前作『桜桃の味』のような(同じ場所とも思える)荒涼たる丘陵地の中腹の、やたらカーブのつづくくねくねした道を走る車(ミニバン)を、離れた所からロングで撮影するシーンで始まる。車に乗る人らは行き先への道がわからないようで、皆で案内図か何かを見ながら「ああでもない、こうでこない」と語り合っている音声だけが聞こえてくる。
 進むうち、車の向かう道の脇に一人の少年が座っていて、「遅かったね」と運転する人に話しかける。この少年はファザードといい、車の一行の案内役なのである。ファザードの案内で一行は村に到着する。

 実はこの車の一行は、目的地のクルド人の村シアダレに、よく知られていないクルド人独自の風習の取材に訪れるクルーで、彼らは村の老婆が重態で死にそうだということを聞き、その老婆が亡くなれば行われる葬儀の模様を取材するために来ているのであった。
 実はファザードはその老婆の孫らしいのだが、一行は「我々の目的は村人に内緒にしてくれ」とファザードへ話してある。じっさい、村人らは彼らを「電話局の技師の人たち」と思っているようだ。ファザードの母はクルーの寝泊まり用に2階の空き部屋2部屋を用意してくれていた。
 ここがまた今までのキアロスタミの作品に出て来たような集落で、家のドアは青く塗られているし、村は立体的で複雑な地形の上に建てられているようだ。ニワトリやヤギ、ウシなどが飼われている。病気で寝ているそのおばあさんの家は近くから見下ろすことが出来、その家のドアの前には見舞いで地方から出て来ているという小叔父さんが座っている。

 そして、じっさいに映画に姿を見せるのはクルーのリーダー格らしいベーザードという男だけで、残りのクルーは車の中とか部屋の中から声がするだけで、その姿は最後まで見られることはない。

 そんなとき、ベーザードの持っている携帯電話に着信コールが鳴るのだが、電波状態が悪くって、車に乗って5分ぐらいの、墓地のある高台に行ってようやく電話が通じる始末。
 これ以降、ベーザードの上司から何度も何度も電話があるのだが、そのたびにベーザードは車に乗ってその高台へと移動する。その過程をキアロスタミ監督は省略しないで、毎回丁寧に見せてくれる。
 そしてその高台の脇には一人で穴を掘っている人がいて、穴の中から歌声がする。彼は電話線を埋める穴を掘っているらしい。ベーザードが穴を覗き込むと何か見えるので放り上げてもらうと、それは人間の大腿骨なのだった。ベーザードはその骨を車に積んで持って帰る。以後、電話で高台に行くたびにベーザードはその穴の中の男(ユーセフ)と話をするようになる(ユーセフも姿を見せることはない)。

 ベーザードはファザードに出会うが、ファザードは学校では今テストのまっさいちゅう。テストが終わると畑の手伝いに行く。ファザードの話ではおばあさんは何も食べなくなり、もういよいよ危ないらしい。
 歩きながらベーザードがイランの詩人の詩を暗唱すると、ファザードは続きを詠んだりする。学校で先生が詠んだという。

 あるときベーザードが村の人に牛乳をもらいに行くと、そばの地下にいるゼイナブという女の子に頼むといいと言われ、その地下へ降りて行く。地下は真っ暗だけれどもそこに牛とゼイナブがいて、乳を搾り取ってくれる。カンテラの明かりでゼイナブの赤い服は見えるけれども、その顔はわからない。実はゼイナブはユーセフの恋人なのだ。
 ここでベーザードは待っているあいだにゼイナブと話をし、またフルークという詩人の詩を聞かせてあげる(このシーンは、この映画でもいちばん美しく魅力的なシーンだ)。この詩のさいごの一節が、「心は風のままに」という。

 この他にも、おかしくも興味深いディテールがいろいろ続くのだが、クルーは何日経っても仕事が始められないので帰りたがるようになる。そのうち、ファザードはベーザードに「おばあさんが元気になって食事を食べるようになった」という。ベーザードも状況にイライラしはじめるし、上司からは電話で「もう中止しろ」と言われるらしい。ベーザードは「あと3日ぐらい」と言うのだが。
 そのうちにクルーの連中もファザードからおばあさんの病状を聞き、すっかり帰る気になってしまう。イライラしたベーザードはそんなことをクルーの皆に話したファザードに怒りをぶっつけてしまう。また上司から状況を聞く電話があり、その高台にリクガメがいたもので、カメを蹴っ飛ばして裏返してしまったりする(カメはベーザードが去ったあとで自力で起き上がるが)。
 村に帰ったベーザードはファザードにあやまろうとするが、もうファザードはベーザードのことを信用しないようだった。

 次に上司から電話があったとき、高台のフルークの掘っていた穴が落盤を起こし、フルークは生き埋めになってしまう。一人では助けられないので、ベーザードは村人の助けを呼ぶ。車は無事にフルークを助け出した村人らに貸し、ベーザードはそこに来ていた村の医師に「ついでに危篤の老婆を診てくれ」と言い、医師のオートバイに乗って村へ帰る。
 帰ってみると、クルー一行はすでに宿を引き払っていなくなっていた。
 ベーザードは医師の処方する薬を病院に取りに行ってあげるため、また医師のオートバイに同乗する。そこにまた電話があり、オートバイの上で少し話が出来たのだが、「取材は中止」と言われたようだ。
 医師は老人の病気は「老衰」で、実はもう見込みはないという。医師は「死は残酷なものだ。この世の美しさを味わえなくなる」と言う。ベーザードは「死後の世界も美しいのでは?」と聞くと医師は「天国は美しい所だと人は言う、だが私にはブドウ酒の方が美しい」と言う。

 響きのいい約束より目の前のブドウ酒だ
 太鼓の音も遠くで聞けば妙なる調べ

 これは有名な詩のようで、ベーザードと医師と二人で朗誦する。

 翌朝、一人で村に宿泊したベーザードが荷物をまとめて帰ろうとすると、老婆の家の外にはたくさんの靴が置かれていて、人々の嘆き悲しむ声が聞こえてきたのだった。
 ベーザードは車の中から、老婆の家から戻って来る女性たちにカメラを向けるのだった。帰り道、村を出る川のほとりで、ベーザードはまだ車に積んであった墓地で拾った骨を投げ捨てるのだった。

 この作品も、ベーザードが実は映画を撮ろうとしていたのだとすれば、今までの作品に連なる意味を持つことになるだろう(映画の機材など写らないが)。例えば昨日観た『桜桃の味』が、「映画は映画であり、現実ではないのだ」というものだったとすれば、それはその前の『そして人生は続く』に連なるだろうし、この『風が吹くまま』でとうとう「現実」を「映画」にとらえることが出来なかったベーザードの話につながるだろう。

 ベーザードの「奮闘」はある時はこっけいであったりもするけれども、それでも村人との交渉には美しく感じられるものがあり、特に地下の暗闇でのゼイナブとの話、そしてオートバイに乗っての村の医師との対話など、詩的で美しいものであった。

 この作品、うがった見方をすれば、イランという国が実はクルド人を迫害しているということへの遠い反映であり、クルド人への深いリスペクトを感じさせるこの作品の「原点」であるかもしれない。そしてこの作品には深く、「詩」の精神が息づいている。

 あとで調べて知ったのだが、この作品には、のちに『酔っぱらった馬の時間』などで知られることになるバフマン・ゴバディが助監督として参加しているのだが(俳優としても出演していたらしいが、どの人物かはわからない~学校の先生役だったか?)、バフマン・ゴバディはまさにクルド人であり、今げんざい亡命生活をつづけているというが、それは彼がクルド人ゆえなのかは今のわたしにはわからない。