ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『夜』(1961) ミケランジェロ・アントニオーニ:脚本・監督

 小説家のジョヴァンニ・ポンターノ(マルチェロ・マストロヤンニ)とその妻のリディア(ジャンヌ・モロー)は、入院しているトマーソ(おそらくは文芸評論家)を病院に見舞いに行く。見舞ったトマーソの目の表情などから、トマーソはリディアを愛していた、もしくは愛していると想像できる。医師からトマーソの病状は絶望的だと聞かされ、そのショックなのか、以後リディアはジョヴァンニと別行動をとることが多くなる。ジョヴァンニは自分の本のサイン会へリディアを伴って出かけ、一度帰宅したあと、夜になっていっしょにバーのフロア・ショーを観る。
 そのあと夫妻はある富豪のパーティーへと出かけるのだが、パーティー会場でも夫妻は別行動が多くなる。ひとり会場をさまようジョヴァンニは、パーティーに加わらずに「一人遊び」している富豪の娘、ヴァレンティーナと出会い、強く彼女に惹かれる。一方のリディアはパーティーの途中で病院に電話し、トマーソが亡くなったことを知る。彼女はパーティーに参加していた男と車で外に出るが、男に求められたときに後悔してパーティーに戻る。
 天候が崩れて激しい雷雨になり、野外でも開かれていたパーティーは混乱し、そのうちに停電もして屋敷内は真っ暗にもなる。

 朝になり、広い庭の片隅にすわった夫妻。リディアはトマーソが亡くなったことを伝え、自分はもうジョヴァンニを愛していないと言い、ジョヴァンニに「わたしを愛していないと言って」と迫るのだ。ジョヴァンニはリディアの言葉を否定し、「愛していないなんて言わない」と、強くリディアを抱擁するのだった。

 ‥‥この二人、どことなく昨日観た『情事』の、失踪前のアンナとサンドロのカップルを思わせられるところがあり、ここでのリディアも「もうちょっとで失踪」というような行動をしていると思うし、ジョヴァンニはやはり妻以外の女性を求める本性を持っているようだ。
 ではこの映画のヴァレンティーナは『情事』でのクラウディアと「相似形」なのかというとそういうことではなく、クラウディアはその若さと「富豪令嬢」という地位からだろう、気まぐれさをみせてジョヴァンニを翻弄するのである。

 そして興味深いのは、まずはリディアがパーティーから離れて一人でいるヴァレンティーナを目にして、あとでジョヴァンニに「一人でいる若い女性がいたわよ」と、ある意味彼を焚きつけるようなことを言うのである。つまりリディアはジョヴァンニがヴァレンティーナに惹かれることを見越して、それで二人を会わせたらどうなるかみたいなことをやっているのだ。そこにあるのはジョヴァンニへの「あなたはそういう男よ」という視線であり、もうリディアがジョヴァンニを「愛していない」というのは真実なのであろう。

 ジョヴァンニは「そんなことはない、僕はあなたを愛している」とリディアを抱きしめるが、そこにはまさに「不毛さ」が介在していることだろうし、『情事』のラストで泣き崩れるサンドロのイメージもダブるだろう。
 アントニオーニ自身も、かつて結婚していた妻に突然に別れを告げられて離婚した過去があるらしく、そのあたりの体験が、この時期の作品に色濃く反映されているように思える。わからないが彼がそれらの映画で描こうとしたのは、男である自らの「自己否定」という視点が大きな意味を持っているように思える。『情事』のサンドロの行動も肯定しにくいものだったろうし、この『夜』でのジョヴァンニも、いくらリディアが「愛してないと言って」と語っても、「そんなことは言えない」とは言っても彼の行動はそのことを裏切っているのではないだろうか。どちらかといえば「男」に対してシビアなのがアントニオーニの視点なのかな、とは思う。

 映画的にみて、途中のパーティー会場の「停電」の闇が、ストーリーの「Interrupt」的な間合いとして効果的だったと思うし、その前のバーでのパフォーマーのダンスの場面もまた、観終わったあとに妙に記憶に残っている。