ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『太陽はひとりぼっち』(1962) ミケランジェロ・アントニオーニ:脚本・監督

 「愛の不毛三部作」と言われる三作のラストの作品。わたしにはこの作品でのアントニオーニの作劇、演出術こそが「革新的」と映ったし、また、モニカ・ヴィッティの虚無感をあらわしながらもくるくると変化する表情に惹き付けられ、このところ観た映画ではいちばんの感銘を受けた映画になった。

 映画の冒頭、ヒロインのヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)は婚約していた男のアパートで、男と別れることを決めている。その前におそらくは長いトークがあったことだろうが、映画はまずは二人の長い沈黙があり、男の「やはり、もうダメなのか」というような言葉からの短い会話があり、ヴィットリアは外へと出て行く。
 この映画の舞台はローマ近郊なのかもしれないが、このヴィットリアが外を歩くシーンなど、映画全体にそんな「歩道」のシーンが多く出て来る。また、建物の2階や3階の窓から外を見るというシーンも多く、それにまさにセスナ機からローマ市街を見下ろす場面もあって、「視覚的」な上下関係というものを描こうとしていたようでもある。

 ヴィットリアは女友だちに会いに行き、「ケニア生まれだ」という女性にも会って、モニカ・ヴィッティとしては予想外なことに、顔を黒く塗って厚い首輪をはめて槍を持ち、アフリカ原住民の踊りをまねてみせたりもする。
 別の日にそのメンバーでセスナ機に搭乗し、ローマ上空を飛んだりもし、ヴィットリアは「気が晴れた」とは言う。

 ヴィットリアの母は株の投資をしていて、株式取引所へよく行くので、ヴィットリアも母に会うときは株式取引所へ行く。ある日ヴィットリアが株式取引所へ行くと、その日に株は大暴落をする。
 ヴィットリアは母を通じて顔見知りだった株式仲買人のピエロ(アラン・ドロン)と会い、行動を共にするうちに親密になる。しかし、またヴィットリアの胸のうちには「虚しさ」がよみがえるだろう。
 ピエロはヴィットリアに「明日も次の日も、また次の日も会おう」と言い、ヴィットリアは「今夜にも」と言って別れるのだが‥‥。
 このとき、この映画ではさいごにヴィットリアとピエロが抱き合うとき、抱き合ったあとのふたりの表情の描き方がみごとで、特にいっしゅんカメラ目線に等しくなるアラン・ドロンの厳しい表情は、この作品のひとつの「キモ」だったように思う。

 ほとんどストーリーの進行とは関係のない、株式取引所の喧騒ぶりの描写に長い時間が取られるし、映画の中で人が開く新聞には「核の恐怖」などという記事が出ている。アントニオーニ監督は「これが<現代>なのだ」という姿を見せ、この映画で描かれる「愛の不毛」ということも、<現代>の中のこととして無関係ではないのだ、と言っているようにも思える。
 それは「資本主義経済」の中の「株の暴落」というような不安、そして「東西対立」の核戦争の「不安」などというものでもあることだろう。

 ラスト、ピエロと別れたヴィットリアが夜の街路に出たあと、カメラはすでにヴィットリアの後は追わず、ほとんど誰もいない街路のショットがモンタージュされて行く。映画のラストは街灯の明るい光のアップであるが、それが核弾頭の爆発の色を思わせないわけでもない。