ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ホームワーク』(1989) アッバス・キアロスタミ:脚本・編集・監督

 この作品は、ドキュメンタリーとして撮られている。
 キアロスタミ監督は、自分の子供の宿題をみてあげているとき、「宿題は子供たちのためなのに、みてあげる大人の方が大変ではないか」と思い、イランの子供たちはいつもたくさんの宿題に追われてるのかと、じっさいにある小学校にカメラを持ち込んで、他の子供たちはどうなのか、キアロスタミ家だけの問題なのか、それとも教育システムに問題があるのか、子供たちに聞いてみるのだった。キアロスタミはこの映画を「リサーチ」と呼んでいる。

 映画はまず登校する子供たちを撮影し、その次に学校の校庭での朝礼の様子を撮る。これがわたしなどにはちょっとショックで、生徒全員で「イスラムは勝つ!西と東を倒せ!」「神よ、マホメットに祝福を!」と大声で唱和する。「神を信じるものをお救い下さい」「絶えることをお教え下さい」と言い、「フセインは地獄へ堕ちろ!」と叫ぶ。戦前、戦中の日本もこんなだっただろうかと思ってしまう。

 このあとに、学校の中の殺風景な部屋のデスクのうしろにサングラスをかけたキアロスタミ監督自ら座り、デスクの前に順番に来る子供たちにライトをあてながら質問して行く。ときどき子供たちを撮影するカメラのレンズとか、質問するキアロスタミの顔も、ちょうど子供たちが目にする位置から撮影されて挿入される。
 どうもわたしはこういう撮影の仕方は子供たちに対して「威圧的」ではないかとも思ったのだが、さいごに登場する子以外にはそういう影響はなかったようだ。

 撮影される子供たちはその日に宿題をやって来なかった子供たちで、小学校2年生(8歳)ぐらいの子供たちみたいだ。その子供たちについてのことは担任教師からある程度聞いているようで、子供に「きみは成績がいいと先生が言っていたよ」とか「きみは学級委員なんだってね」などと語りかける。
 それで宿題をやって来なかった理由をそれぞれの子に聞くのだが、その理由はさまざまだけれども、両親が字が読めないので両親以外のきょうだいや親族にみてもらうのだが、それが昨日はみてもらえなかったという理由が多い。どうもとりわけ「書き取り」の宿題というのは、誰かに文を読んでもらって、それを子供が筆記して行くらしく、ここに「宿題をみてくれる人がいないと宿題が出来ない」ということになるようだ。キアロスタミ監督が「大人が大変だ」というのも、こういうことだろうかと思う。
 テレビでやってるアニメ番組はみんな好きなようだが、たいていの子は宿題をやることを優先する。「アニメと宿題とどっちが好き?」と聞くと、み~んなが「宿題の方が好き」と答える。こういう場で「アニメが好き」と言ってはいけないと思った可能性は強いが。

 宿題をやらなかったら両親は怒るの?と聞くと、みんな「怒られる」と答えるが、どのように怒られるかというと、皆が「ベルトでぶたれる」と答え、イランではそういうしつけが一般的なようだ。じっさい、子供たちに「自分に子供が出来たら同じようにぶつ?」と聞くと、「お父さんにぶたれたからボクもぶつ」と答える。一人だけ親にはぶたれないという子がいたが、その子は「自分の子はぶたない、お父さんがぶたなかったから」と答えるのだった。
 逆に「褒められることはあるの? 褒められると褒美をもらえる?」と聞くと、「褒美」とは何のことかわからない子が多い。
 また、これは大きな問題みたいだが、算数の問題を親にみてもらおうとすると、親が小学校のときに習った算数とやり方が違うので、まったく教えてあげられないということがあるようだ。ではいったい学校ではどのような授業が行われているのか?と、気になるが。

 終盤に、転校の相談のためにその小学校に来ていたという親がインタビューに答える、というか自分の考えをカメラに向かって述べる場面がある(この人物が「役者」である可能性は捨てきれないところがあるが)。
 この人は何年も外国で暮らした経験があるそうで、いろいろな国の「宿題」事情を話してくれる(「日本では伝統的な厳しい教育のせいで子供の自殺者が多く、教育システムの見直しが始まっている」という話もされた)。
 この人の意見ではイランの子供たちは抑圧されているといい、教師は子供にうっぷん、自分の欲求不満をぶつけるし、家庭では親は子供に何をしてやるべきかわからず、やはり欲求不満をぶつけることになるという。そういうことから子供たちは精神的影響を受け、抑圧されて苦しんでいる。「創造性がまったくなく、マネだけする子供ばかりになる。このままではこの国の未来は暗い。教育システムを考えなくては」と。
 この人はかなり革新的でリベラルな考えの方で、何だかこの「リサーチ」映画の一方の意見を一人で代弁されたようだ。

 さいごにマジッドという子がカメラの前に立つが、カメラの前で泣き始めてしまう。「どうしたの」と聞くと、「友だちのマライがここにいないから」と言って泣き続け、「もう帰りたい」と言い、このときはこれでカメラも止められる。
 次にそのマジッドの友だちのマライが呼ばれ、「マジッドは何で泣いてばかりなの?」と聞くと、「マジッドは1年生のときに勉強も出来ずにいたずらばかりする悪い子で、それで先生に怒られてばかりで弱虫になってしまった」という。
 「どういう風に怒られたの?」と聞くと、「定規で叩かれて、その定規がこわれてしまい、次から先生は竹の棒を持って来て叩いた」「それからマジッドはいつも怖がるようになり、教室で始業のベルが鳴ると泣くんだ」「他の子が怒られても怖がって泣き出す」という。「なぜここで泣き出したんだろう?わたしが怖かったのかな?」と聞くと、「ここのどこかに定規が隠してあって叩かれると思ったんじゃないかな」という。

 これはちょっと恐ろしい話で、明らかに「ハラスメント」ではあるし、「定規がこわれるほどに叩く」なんてひどい話だ。このマジッドという子は、教師のせいでPTSDになっているのではないかと思える。
 このあとにマジッドの父親が登場するのだが、父親は教師から「マジッドは無能で知能が遅れている」と言われたという。それで彼はマジッドに算数を教えてやろうと思ったのだけれども、先に書いたように「今の算数の教え方」がわからず、けっきょくは子供にストレスを与えただけに終わり、マジッドにプレッシャーをかけたことで彼は父親のことを怪物のように感じたようだと語る(この父親は穏和そうで、知性的な印象だったが)。集中して勉強出来るよう、書き取りを読んでやろうと別の部屋に入れてドアを閉めたら、パニックに陥ったという。
 キアロスタミが父親に「この撮影では友だちが不安を解消する役を果たしているが、家庭では?」と聞くと、「それは母親だ」との答え。しかしこの父親は、母親のように甘やかすべきではないと考えている。
 父親が言うのは、「これは基本的に学校で解決すべき問題で、学校の授業ですべて理解して、家で勉強する必要はないはずだ。宿題があるのはいいが、授業をすべて理解していることが前提でしょう」ということ。日本ではごく当たり前のことのようだが。

 さいごにもう一度マジッドを撮影の部屋に呼び、「モライと一緒なら大丈夫だね」と、モライも呼ぶ。今度はマジッドもずっと落ち着いているようで、「じゃあモライがいなくても平気だね」とモライに部屋を出てもらうが、やはりしばらくすると泣きそうになってしまい、またモライに来てもらう。さいごにまた混乱しそうになったマジッドに、キアロスタミが「宗教詩を一つ読んでごらん」と語りかけると、マジッドは「おお神よ」という詩を朗誦する。けっこう長い詩を、つっかえもせずまっすぐ前を向いて朗々と暗唱するさまは、「この子に知的障害がある」とは思えないものだった。

 父親はある程度マジッドのことを理解しているようだが、罪深いのは教師のように思える。ただただ「出来ない子には体罰を」というやり方では、子供の精神の成長を歪めてしまう。
 なんだか、このさいごのマジッドの問題に、この映画が問おうとしたことが凝縮された気がする。
 他国のことだからとただその教育システムを批判するのではなく、このようなことは日本でも起こりうることであり、子供を歪めない教育を目指し、わたしなどもこのことを考えるべきだと思った。