ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ドライブ・マイ・カー』 村上春樹:原作 濱口竜介:脚本・監督

     

 濱口竜介監督の作品は、前にサブスクで『寝ても覚めても』という作品を観ているが、実はこれっぽっちも記憶していない。ただ、黒沢清監督の『スパイの妻』の脚本がこの人だったということで、その作品に映画として感銘を受けたこともあって、(その「脚本」を監督がどうアレンジしたかにもよるが)チェックしておきたいという監督さんだった。おまけにこの『ドライブ・マイ・カー』という作品、海外でも評価の高かった作品でもあるし。
 ただ、この原作が村上春樹氏というのがひっかかるところで、わたしはこの日記でも何度か書いているが、彼の作品が好きではない、いやむしろ「大っ嫌い」なのだ。

 そういうところで「どうよ!」という気分はあったのだが、まあ原作者の漂わせる「空気感」が、作者とは別の脚本家の手を経て別の監督によって映像化されれば、作者のそういう「臭気」も消え失せてしまうこともあるだろう、そう期待して映画館へと行った。

 180分の作品、「いつ終わるのかなあ?」などという気分にもならず、飽きずにラストまで観た。しかし、それはこの作品のストーリーが全面的に「面白かった」ということではない。
 いちおうそのあたりは演出の力もあってか、観ているときはそこまで忌避する気分もなかったが、正直に書こう。わたしはこの映画の、主人公の男とその亡くなった妻、そしてその妻と関係を持っていた男との関係など、まったく面白いとか思わない。どうでもいい。というか、観終わってしばらく時間が経ってみると、まさに「忌避」する世界だ。
 まあ「嫌い」なのだから、今ではまるで読むこともない村上春樹の作品だけれども、まさにこの映画で描かれる「男女関係」みたいなのこそ、わたしには村上春樹的とは思えてしまい、「やっぱりね~」となってしまうのだ。
 「何がそんなに嫌いなのか」と問われて、あまり正直に「これこれこういうところが嫌い」と語るつもりもないけれども、ひとこと書けば、わたしは「セックス絡みで男女の思考に分け入って考察するような作品」に興味はないし、そういうことで過去に読んだ村上春樹の作品を嫌いになり、それ以降も(読んでいないけれども)彼の作風は変わっていないらしいところから、「もう彼の本は手に取らない」としているだけのことである(けっこう「正直」に語ってしまったかな?)。
 この『ドライブ・マイ・カー』にも、まさにそういう切り口がガリガリおもてに出て来ていると思う。

 しかもこの作品、「演劇」というファクターが前面に出て来ているわけだ。「原作」がどうなのかしらないけれども、この映画で描かれた「演劇」というものは、監督の濱口竜介氏の捉えた「演劇」、というものなのだろう。それがまた、わたしには納得がいかない。
 この映画での「ワーニャ伯父さん」の舞台のことだが、もしもああやってソーニャ役に「韓国手話」を取り入れるならば、もっともっとソーニャ以外の役者にも「身体性」を要求しなければ、舞台空間は成立しないと思う。
 ここで監督はこの舞台に「多言語」の共存ということばかりに気をとられ、「手話」をひとつの「言語」としているのだが、「手話」とはつまり、「身体表現」である。ここでソーニャ以外の役者がただそれぞれの「異言語」に頼るとすれば、それは「ディスコミュニケーション」でしかない。
 このソーニャ役の役者が「耳は聞こえる」という設定はいかにも「卑怯」というか「ずるい」。もちろん、この映画での「舞台」は互いに他言語で語り合いながらも、それでもコミュニケーションは成立しているという、一種の舞台上の「幻想」で成立しているわけだけれども、「手話」という表現にその「幻想」を共有させようというのは、根本の前提をくつがえすものだと思える。
 長くなるので今はこれ以上書かないが、つまり、この映画でのこの「舞台」の演出は、<演劇>として成立し得ないものだというのが、今のわたしの考えである。

 そういうところでわたしはこの映画に<否定的>なのだけれども、それでもこの映画はわたしには見どころがあり、そこを楽しんで観ることが出来たと思う。

 それは主人公の男(演劇人)と、そのドライヴァー役を勤める「みさき」という女性との関係の変化(深化)の描写だったかな、と思う。
 特に、男を演じる西島秀俊の、オーソドックスといってもいい「感情移入たっぷり」の情感あふれる演技に対して、「みさき」を演じる三浦透子という女優さんの、「熱い演技」をみせるのではなく、サラッとかわしたような演技が対照的で目を惹いた(それは監督の演出でもあるのだろうが)。
 私見では、この三浦透子の演技こそ、この映画を救済していたとは思うのだった。
 もう、他のシーンはぜ~んぶ忘れてしまってもいい。ただ、彼女の存在こそが「映画」であったと思う。

 今の映画には珍しく、登場人物らがみ~んなタバコをいっぱい喫う映画でもあったが、特にこの「みさき」の喫煙シーンはどれも良かった。
 主人公もかなり彼女に気を許して、自分の車の中で彼女の喫煙を許すとき、自分もいっしょに喫煙し、車のサンルーフから二人でタバコの灰を飛ばすシーンは好きだ。
 そしてその車の中の四つの座席での、運転する彼女と、そして男との座る位置の変化がまさに二人の距離をあらわしていて(まあ恋愛関係になるとかいうのではないのだが)、ラストまで引っ張ってくれた感がある。

 それでひとつ書いておきたいのが、この二人が終盤に彼女の故郷の北海道へ行き、彼女の実家のあったところへ行ったとき、雪の坂の下に降りた彼女を、坂の上から男が手を伸ばして彼女を引き上げようとする場面があったのだけれども、まあまさにこのシーンが初めて二人が触れ合うシーンだったのだが、画面で坂の上から彼女に手を伸ばす男の背後の空に、「まさにグッドタイミング!」とばかりに一羽の鳥が飛び抜けて、「こ~んな<偶然>があるのか! それとも、背後でスタッフが鳥を飛ばせたのか?」とか思ったものだったが、さいごのエンド・ロールで、スタッフに「VFXスタッフ」も存在したことがわかり、「ありゃりゃ、あのシーンは後処理の<VFX>だったのか」と思ったのだった(まあVFX処理は別のシーンだったのかも知れないが)。
 もう、今の世の中、映画を観て「すっごいシーンを撮影してるな!」とか思っても、それが例えSF映画とかいうのではなくしても、額面通りに受け取ってはいかんのだろうかと思うのだった。