
- 作者:ウラジミール ナボコフ
- 発売日: 1992/11/01
- メディア: 単行本
・『名誉の問題』(1927)
・『リーク』(1939)
・『ヴェイン姉妹』(1951)
・『博物館を訪れて』(1939)
・『目』(1965)
これは、ヤバい作品を読んでしまった。ナボコフの、1927年から1965年にわたる長い期間に発表された4つの短篇とひとつの中篇からなるこの作品集、ある意味で「これぞナボコフ!」という珠玉の作品からなっているわけだけれども、この5篇のどの作品からも、「ロシアからの亡命者」ナボコフの、その亡命体験が深い創作動機になっているのではないかと思う。ナボコフの<最後の>短篇『ヴェイン姉妹』にはダイレクトには「亡命」ということは主題とはなっていないだろうけれども、その「降霊術」的なコンセプトの裏側には、「いま、ここにある世界」の裏側にある「霊的な世界」という対立構造に、ナボコフにとって失われた<ロシア>なるものが透けて見えるだろうか。
ひとつひとつの作品があまりに奥深く、それぞれの作品について書いていくならば、全体で軽く一万文字を越えてしまうことであろう。
いちばん「感想」を書きやすいのはさいしょの『名誉の問題』だろうけれども、これだってわたしは読み終えてからロシアにおける<決闘>という伝統(?)について調べてみると、たんじゅんな感想など述べられなくなってしまう。そもそも、タイトルの『名誉の問題』自体が、密接にその<決闘>と結びついているのだ。
いちばん大変なのは『ヴェイン姉妹』で、これは「再読」に「再読」を重ねさせることを誘う作品で、つまり作品さいごの(謎解きを含む)センテンスがこの作品の冒頭へとつながり、この作品ではただ「書き手」としてしか姿をあらわさないような「私」なる存在はいったい何者なのか?という途方もない思索へと読み手を誘うのである。わたしはまだ、その真っただ中にいる。
同じように、「書き手」の「私」とは何者なのか?という謎解きに読者を誘うのが『目』という中篇だけれども、じゃあ「私」は誰だったのか?という答えを見つければそれですむ作品ではない。いや、それでもわたしは相当に早い段階で「私」とは誰かがわかったことは、ちょっとばかし自慢しておきたい。だって、「私」が含まれるはずの人々の集まりの中で、どこにも「私」がいない。それならば「私」は「私」のことを客観描写で書いているのだな、と気づくしかないのである。でもこの作品は、「なぜ<私>は<私>であるのか?」という問いかけを含んでいるというか、そこに人の<自意識>を読み取らせる奥深い作品ではあると思う。
『博物館を訪れて』は、どこかシュルレアリスム的空間と時間の超越を含む、ナボコフという作家の奥深さを感じさせられる作品で、そこに「亡命者」の意識が投影されている。
『リーク』は、ナボコフによる「作者解説」を読むと、「あらら、わたしは読み間違えてるな」と思わせられるのだけれども、たしかにラストの主人公の語りは舞台っぽいのかもしれない。
かんたんに書いてしまうとそういうことだけれども、この本のすごいところは、翻訳者がナボコフと同じようにロシア語にも英語にも(ついでにフランス語にも)通じた小笠原豊樹氏によるということで、おまけに小笠原豊樹氏は「岩田宏」の名で活動された詩人でもいらっしゃった。これほどにナボコフの翻訳に似合った人もいないのではないかとも思うのだけれども、残念ながら小笠原豊樹氏が翻訳したナボコフは、ただこれ一冊きりなのだった(しかし、ナボコフでも<最上>の作品集ともいえるこの本を、小笠原豊樹氏が翻訳して下さったことをただ感謝するしかないだろう)。
さて、わたしは『ナボコフ全短篇』という分厚い書物も持っていて、そこには『名誉の問題』も『リーク』も、『博物館を訪れて』も(『ナボコフ全短篇』では『博物館への訪問』のタイトル)、『ヴェイン姉妹』も含まれているのだけれども、ここで問題になるのは、『ヴェイン姉妹』の末尾がどのように翻訳されているかということになる。ここで『ヴェイン姉妹』を翻訳しているのはあの若島正氏なのだが、その問題の箇所、若島氏はテキストの中の「これ!」という文字は、そこだけボールド書体にされているのだった。むむむ、たしかにその<ボールド書体>の文字をひろって読めば、「シビルからのメッセージ」が浮かび上がる仕掛けにはなっているのだが、そのことについて<注>もついていないし、「解説」にもまるで書かれていない。これ、普通に読めばスルーしてしまわないだろうか? わたしはこうやって小笠原豊樹氏の翻訳で読んだから、その大きなポイントを知ったわけだけれども、はたして、ただ『ナボコフ全短篇』だけを読んだどれだけの人が、この「仕掛け」に気づいたことだろうか?
先に書いたように、わたしはこの本のそれぞれの作品について、何千、何万文字も費やしてわたしの読んだものを書いていきたいという誘惑に駆られるのだけれども、わたしにはあのキャンディーズの伊藤蘭のように「わたしたち、時間がないのよ!」と言うしかないのである。の~したらいいのだろうか?