ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『四重奏/目』 ウラジーミル・ナボコフ:著 小笠原豊樹:訳

 ナボコフの短篇はたいていは書かれた時代順に、ある程度まとまった時点でいくつかの短篇を集めて「短篇集」のかたちで刊行されているのだが(ナボコフに限らず、たいていの「短篇集」というものはそういう成立過程を持つものだろうが)、この『四重奏/目』はそういう執筆年代というものにとらわれず、最初から英語で書かれた『ヴェイン姉妹』を除いて、もとはロシア語で書かれたものをナボコフ自身、もしくはナボコフの息子のドミートリによって1959年から1965年にかけて英訳されたものが底本になっていて、各々の執筆年代はバラバラである。いちおう書いておけば、この本に収められた5篇の作品のロシア語初出、そして英訳された年というのは以下の通り。

 ●『名誉の問題』1927年ベルリン初出、1966年英訳
 ●『リーク』1939年パリ初出、1964年英訳
 ●『ヴェイン姉妹』1959年イサカ(英語で執筆)
 ●『博物館を訪ねて』1939年パリ、1963年英訳
 ●『目』1930年ベルリン、1965年英訳

 もともとは『目』を除く4篇が『四重奏』のタイトルで1966年に刊行され、『目』は単独で単行本として1965年に刊行されたものを、この日本で合本して一冊にしたものらしい

 ロシアからの亡命者としてベルリンで書かれたもの、パリに移動して書かれたもの、そしてナボコフの短篇としてはいちばん最後に、『ロリータ』刊行よりあとに発表された『ヴェイン姉妹』(発表は『ロリータ』よりもあとになったが、ナボコフがこの作品を書き上げたのは1951年のことらしい)と、執筆背景はそれぞれに異なっていて、そのことは特に『ヴェイン姉妹』以外の作品で、主人公が「亡命ロシア人」であるということに色濃くあらわれていて、その内容にも深くかかわっている。

●『名誉の問題』
 主人公アントン・ペトローヴィチはベルリンに住む亡命ロシア人。彼があるとき仕事の予定が早く片付いたので帰宅してみると、妻のターニャが仕事仲間のベルク(彼もロシアからの亡命者である)と不倫しているところであった。アントン・ペトローヴィチは自分の名誉を守らなければならないと思ったのか、ロシア人らしさを見せなければならないと思ったのか、記憶に残っていたチェーホフの『決闘』に影響されたのか、その場でベルクに決闘を申し込むのだった。
 決闘の作法も知らず、銃を撃ったことすらないアントン・ペトローヴィチに勝ち目はない。その夜は悶々と眠れぬまま過ぎるのだが、翌決闘の当日、二人の介添人と共に決闘の場所と決めたところへ行く途中、アントン・ペトローヴィチは「ちょっとトイレ」ってな感じで一人になると、坂を転がり落ちるように一目散、逃げ出したのである。

 こっけいな悲喜劇といえばいいのか、アントン・ペトローヴィチには自分が「ロシア人」であるというアイデンティティーを忘れることが出来ず、まさに「ロシア」なるものに押しつぶされてしまうのだろう。
 ナボコフはときにこういう「擁護のしようもない」人物というのを巧みに、まさに「情けなく」書くわけで、そこに彼の中の「ロシア的なるもの」への屈折した心情が読み取れるのかもしれない。

●『リーク』
 「リーク」とは主人公の名前で、彼は当時ヒットしていたある演劇で「ロシア人」の役を演じる、亡命ロシア人の青年であった。劇団は彼と共に地中海沿岸地方に巡演することになるのだが、そこでリークは彼の少年時代にさんざん彼をいじめた級友、コルドゥーノフと出会ってしまうのである。
 コルドゥーノフは「懐かしいなあ!昔は二人で釣りに行ったりしたよな!」などと語り、自分の暗い過去を話し始めたりするのだが、リークは釣りをしたことなどないし、コルドゥーノフはいろいろな口実を語ってリークから金をまき上げようとするのである。
 その地での最後の公演の日、舞台で履く新しい白い靴を買ったリークが劇場へ向かうと、またもやコルドゥーノフと出会ってしまう。今回は無理矢理にコルドゥーノフの住まいへ連れて行かれるが、その狭くて薄汚いアパートの部屋には疲れた容姿の彼の妻、そして男の子もいるのだった。
 飲めない酒まで飲まされてようやくコルドゥーノフの部屋を出たリークは、しばらく歩いてコルドゥーノフの部屋に買ったばかりの靴を忘れてきたことに気づき、靴を取りに戻る。
 コルドゥーノフの住まいのあたりには人だかりができていて、人だかりの中にコルドゥーノフの妻が血にまみれた姿で立っていた。そのそばにはやはり血まみれの少年の姿。リークがコルドゥーノフの部屋に入ろうとすると、彼を医者と間違えた警官が彼を部屋の中に導く。部屋には口の中を拳銃で撃たれたコルドゥーノフが、白い靴を履いて横たわっていた。リークは警官に「それはわたしの靴です」と、フランス語でいうのだった。

 コルドゥーノフはリークの「ドッペルゲンガー」なのだろう。「舞台の役者」という不安定な仕事に就くリークの、その内面の陰にはいつも「自分はコルドゥーノフみたいな存在になるかも」というおそれが同居していたのだろうか。
 彼がその日の舞台で履くはずだった白い靴を、ラストにコルドゥーノフが履いていたことで「物語」はみごとに完成する。まるですべては「舞台」の上での出来事のようだ。

●『ヴェイン姉妹』
 ‥‥この作品はちょっとややっこしくって、今のわたしには何とも書きようがないのだけれども、読みながら、先日観た映画、トリュフォーの『恋のエチュード』のことを思い浮かべたりしていた。今書けるのはここまで(あとで書き直すかも)。

●『博物館を訪れて』
 主人公はやはりロシアからの亡命者らしく、フランスに住んでいる。彼がモンティセールに滞在すると聞いた友人は彼に「モンティセールの博物館には著名な画家の描いた彼の祖父の肖像画があると聞いたので、まずはあるかどうか確認してほしい。もしも作品があったとして、それを買い戻すとしたらどのくらいの価格になるのか、聞いてきてくれないか?」という。
 裕福だった彼の祖父はサンクト・ペテルブルグの屋敷とパリの住居に住んでいたのだが、祖父がサンクト・ペテルブルグで亡くなったあと、パリの住居の家具類は競売に出され、そのサンクト・ペテルブルグで描かれた祖父の肖像は行方不明になった。それがモンティセールの博物館にあるという噂を聞いたのだという。彼は博物館に手紙で問い合わせたのだが、「そんな作品は所蔵していない」という返答だったという。
 主人公はそんな面倒な用件を引き受ける気はなかったが、彼がモンティセールに着いて市内を歩いていると急な雨に見舞われ、近くの建物に避難するとそれが件の博物館、なのだった。
 「これはしょうがない」と友人から頼まれた件を確かめようと博物館に入ってみると、案内人は「そんな絵はありません」というのだが、2部屋の展示室の奥の展示室にその肖像画があるのだった。主人公は「ではいくらで買えるのか」確かめようと、博物館の近くの博物館長宅を訪ねる。
 博物館長も「そんな作品はないはずです。ではいっしょに確認しに行きましょう」と、2人で博物館へ引き返す。しかし2部屋しかないと思っていた博物館の展示室は奥のドアから別の展示室につながっていて、さらに別のドアから別の展示室へと、どこまでも連なっている。いつしか博物館長ともはぐれてしまった主人公は博物館の中を迷い、彷徨う。
 ようやく博物館の外に出たと思うと、そこはなんと現在のソヴィエト・ロシアの中なのだった。主人公はポケットの「自分が亡命者だ」という証拠になるものをすべて破り捨てるのだが‥‥

 わたしは「亡命者」というものの心理を理解しているわけではないが、単に「物理的」に戻れないというのではなく、「精神的」に、変わってしまった今の故国には帰れないという気もちは、このように「迷路に彷徨い込む」ような心理の果てに、不意に故国を「幻視」してしまうようなものなのだろうか。

●『目』
 ナボコフの一部の作品の特徴である「不誠実な語り手による物語」の同類項ともいえる作品で、つまり果たしてこの作品の後半の語り手はいったい誰なのか、という作品でもある(それは読み進めればわかることだが)。そしてやはり、この作品の陰には「ロシア亡命者のアイデンティティー」という問題があると思う。
 当初は「何者なのか不明」のまま、なぜか登場人物のスムーロフに執着する「語り手」は、まるで「透明人間」のようにどこにでも入り込んで行き、登場人物らを観察し、彼ら彼女らの話すことがらに注意を払う。
 もちろん「三人称」での描写であればこのような描写は小説の上では「ごく自然」なことだろうけれども、この小説は明らかに「一人称」で書かれていて、だからこそ「語り手は誰か?」という疑問が湧いてくる。それは実はひとりの登場人物の「分身」であることがわかるのだが、つまりここでは「ドッペルゲンガー」の逆の、「自己分化」みたいなことになっているわけだ。いったいなぜこの主人公は、自らを分化させてまで「他者の自らへの評価」を気に留めるのか。それはやはり「亡命者」として不確定になっている、自らの「アイデンティティー」を確認するためではないのか。
 しかしここでもナボコフの作品によくあるように、主人公はネガティヴな存在であり、決してプラスに評価のできる人物でもないわけだ。それはこの作品集の『名誉の問題』のアントン・ペトローヴィチのような「情けない存在」に近似しているだろうし、『リーク』におけるコルドゥーノフのような「唾棄すべき男」にも近似していることだろう。
 ここに、ナボコフが自らもそうであるところの「ロシア亡命者」という存在への「ネガティヴ」な認識を読み取れるようにも思う(それは普通に考えられるように、「自虐」なのだろうか?)。