ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『雨の中の慾情』(2024) つげ義春:原作 片山慎三:脚本・監督

   

 2度目の鑑賞。そのあいだに、この映画で描かれたつげ義春の原作マンガを読んだりはしていたのだが、そもそも1回目に観たこの映画のストーリーを、ほとんど忘れているのだった(シーンごとのヴィジュアルな映像記憶は残っていたが)。そういう意味で、さいしょに観たときの感想とかいうものも薄く、ほとんど初めて観る気分での鑑賞になった。
 それでもさいしょに観たときの感想として「これは夢の話」というのはあったわけで、映画の中で冒頭の「雷雨の中で見知らぬ女性と雨やどりする」という、まさにつげ義春の短編「雨の中の慾情」の映像化のシーンからして、主人公の「義男」というマンガ家が自室でうたた寝していた「夢」ということで、以後も映画は「夢」と「現(うつつ)」とを行き来する。

 映画は基本はその「義男」(成田凌)を主人公に、彼の思う「福子」(中村映里子)、その福子の愛人だった「伊守」(森田剛)、義男の家主である「尾弥次」(竹中直人)の四人を中心に展開して行くのだけれども、観ていても「これは夢ではないのか」という場面へと入り込んで行く。特につげ義春の作品の「夏の思いで」はやはり「夢」だろうし、「隣りの女」も、けっきょくは「夢」なのかもしれない。そうするとつげ義春の作品の映像化の場面は「みんな夢」として撮られているようで、だから「池袋百点会」の展開にしたって「夢」なんだろう。
 そう思って観ていると、とつぜんに義男の部屋に「傷負った兵士」である義男自身があらわれ、後半には印象的な「長回し」による戦闘シーンも描かれることになる。
 その「兵士」の展開はつげ義春の原作のない、この映画オリジナルの展開なのだけれども、わたしはその「兵士」としての義男もまた、マンガ家である義男の見る「夢」なのではないのかと思って観ていたのだが、観ているとどうも、その傷を負った兵士としての義男こそが「リアル」な義男であって、それ以外のこの映画はすべて、「傷負った義男」が見る「夢」なのではないのか、ということになるようだ。

 夢・夢・夢‥‥。夢のなかの義男はまた夢のなかで夢をみて、もはや何が「現(うつつ)」なのかもわからなくなるような世界。

 エドガー・アラン・ポーに「Dream within a dream(夢の夢)」という詩作があるけれども、わたしはそんな、ポーの詩のことを思い浮かべていた。

Is all that we see or seem
But a dream within a dream?
(私たちの見るもの 見えるものは
 ことごとく夢の夢に過ぎないのでしょうか?)入澤康夫:訳

 そんな「夢」とも「現(うつつ)」ともつかない世界をあらわすのに、まずはこの映画の大半が台湾でロケ撮影されたということが効果的だっただろう。そして義男の部屋や娼婦館などをセッティングした美術(磯貝さやか)が素晴らしい。そしてもちろん、監督の片山慎三の「夢の世界」、義男という若い男性の欲望と嫉妬を描いてつくり上げる演出こそが、この映画のすべてだろう。先にちょっと書いた、戦闘シーンでのワンショットワンシーンの長回しの演出は、強烈なものだったし。

 ただ、ひとつ「難」を付けるなら、つげ義春の「隣りの女」の映像化の部分で、原作の「ヤミ米の買い付け」をやめて「つむじ風」などという子供を使ったシーンに代えたのは効果がなかったというか、ちょっとこの作品の中ではテイストも違って浮いていて、マイナスだったのではないかと思う。つげ義春の原作通りに、「ヤミ米の買い付け」ということには出来なかったのかな。