ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『パンズ・ラビリンス』(2006) ギレルモ・デル・トロ:脚本・監督

 「現実があまりに過酷な時、人はファンタジーの世界に逃避しようとする」というとき、ヒロインの女の子がいかに自分が夢中になっていた「フェアリーテール」の中に逃げ込んだのがこの映画、という解釈が成り立つ映画だけれども、その現実の過酷さ、一方のフェアリーテールの展開の緻密さで、ちょっと抜きん出た作品だと思う。

 もちろん、ヒロインの少女オフェリアが身重の母と共に新しい父(フランコ政権の大尉である)のもとに向かうとき、その緑に囲まれた土地の中に「妖精の住む」空気を感じ取ったことから始まる物語で、オフェリアがさいしょに出会う「妖精」も、現実には「ただの虫」だったのかもしれない。
 そういう、オフェリアの幻視していた世界はまさに「幻」だったのか、それともそこには「パン(牧羊神)」らの支配する迷宮の地下世界が実際にあったのか、というあたりが、映画として実に巧みに「現実と幻覚」として描かれて行く。
 さらにこの作品が優れているのは、そんなオフェリアの世界の手前に、新しい大尉の「ファシスト」ぶりと、そんな大尉の軍と戦う山岳ゲリラ、ゲリラに協力する大尉の家政婦のメルセデス、そして医師らの存在の描写だろう。
 オフェリアは早くからメルセデスがゲリラに協力していることを知っていたのだが、彼女はパンの望むように母の新しい子が無事に生まれることに協力しなければならない。また、そのパンに与えられた「3つの試練」をクリアすれば、自分の前世でもあった「地底の王国の姫君」にもなれるのだ。

 新しい住まいのに近い森の奥には、そんなパンが番人をする「地下の迷宮」があり、そこに行ってオフェリアは「試練」を果たさねばならない。
 このことと並行して、山岳ゲリラらとファシスト部隊との闘争も苛酷になって行く。また、母は男の子を産むが、産褥で死亡してしまう。そしてついにオフェリアは、「さいごの試練」を迎えるのである。

 現実世界の、ファシスト部隊の遂行する残虐な行為にも目をそむけたくなるのだが、そういう現実=地上世界の残虐さに呼応するように、オフェリアの行く「地底世界」もまた「グロテスク」である。
 この「グロテスク」な世界はどこか、昨日まで観ていたヤン・シュヴァンクマイエルの映画の世界のようでもある。オフェリアは「マンドラゴラの根」を母のベッドの下に置き、血のしずくを垂らして育てなければならないのだけれども、その「マンドラゴラの根」はまさに、シュヴァンクマイエルの描いた『オテサーネク』に登場する「木の根の子」と相似形だし、地底に住む「カエルの妖怪」は、『アリス』に登場した不気味なカエルにそっくりなのである。
 ではこの映画の「オフェリア」は「アリス」なのかという連想も浮かんで来るが、そういうひとつの見方もあるだろうとは思う。これは「ダーク・ファンタジー」の世界なのだ。

 しかし、この日この映画を観てわたしが思ったのは、「もしもこのオフェリアの行動が<妄想>によるものだったとしたら、なぜに<何のプラスにもならない>行為、乳児を連れて地底迷路に連れて行こうとしたのか?」っつうことで、そりゃあ「地底世界」を仕切る「パン」の「3つの試練」のラストワンなのだからしょ~がないよ、ってことなのだけれども、このことがどうしても、オフェリアが「現実世界の過酷さ」から「ファンタジー・ワールド」へ逃避しようとしたという解釈への「足かせ」になってしまう。
 オフェリアがその「過酷な現実世界」からサヴァイヴァルしようとするならば、そんな危険な、「乳児を地底に連れて行く」などという判断はあり得ないのだと思う。

 そういうことで、わたしは(この映画は素晴らしい作品ではあるけれども)これは脚本のいちばんの欠点だと思う。オフェリアの行為はどこかで、メルセデスや山岳ゲリラの活動を助け、大尉を倒すことに寄与すべきだったと思う。この映画ではオフェリアの行為は、もうまったくメルセデスや山岳ゲリラの闘争とは無関係なのだ。
 むむ、いやだからこそ、オフェリアの内面の「パンの迷宮世界」はちゃんと存在するものであって、オフェリアは「3つの試練」して(さいごの試練は「難題」だった)、「地底王国の姫君」となれるのだろうか。

 こういう多様な読み取り方が出来るからこそ、この映画は「素晴らしい作品だった」と言えるのかもしれないですね。