ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『まぼろしの市街戦』(1966) フィリップ・ド・ブロカ:監督

 おそらく、実験的な映画をつくろうとする映画作家は、そのスクリーンの上で観客に「観客の皆さま、今皆さまがご覧になられているモノは、<虚構>、<大ウソ>なのでございます」と告げるような作品をつくってみたいと思ったりするのではないだろうか。例えばイタリアのフェデリコ・フェリーニ監督なんかにはそういうところがあっただろうし、日本で言えば鈴木清純監督もそんな感じだったかもしれない。ある意味でキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』もそういう映画なのだと割り切ってとらえれば、ずいぶんと風通しが良くなるかもしれない。ああ、そう考えるとオーソン・ウェルズにもそういうところがあったかもしれない。
 そもそんな監督たちはたいてい、「知性」が先に立ってしまうというか、作品がインテリジェンスの壁の上にそそり立ってしまい、一般に「わからないよ!」という反応こそが先立ってしまうことが多いのかな、とは思う。

 ここに、そ~んな「インテリジェンス」のリスクの上に築かれずとも、「ここに<虚構>がございます」ということを築き上げた作品があるみたいだ。それがこの、フィリップ・ド・ブロカ監督の『まぼろしの市街戦』ではないかと思う。素晴らしいことである。
 しかもこの作品がもうひとつ素晴らしいのは、そ~んな<虚構>を成り立たせるのに「戦争」を持ち出し、それが結果として「反戦映画」になる、というよりは、これが珍しい「厭戦映画」になっているところだろうか、とは思う。

 もちろん、ここでの切り口は「狂気」ということではあるのだけれども、この映画の主人公の、イギリス軍の「伝書バト飼育係」であったプランピック(アラン・ベイツ)は、この「映画的現実」の狂気状態と「世界の現実」の戦争状態との選択を迫られ、「狂気」の側をこそ選ぶのである。
 まあこの映画においては、そんなイギリス軍のトップの大佐(アドルフォ・チェリ)にせよドイツ軍にせよ「狂気」であることに大差はないのだけれども、実は精神病院の患者である公爵(ジャン=クロード・ブリアリ)がラストに「最も美しい旅は窓から飛び出す旅だ」というように、精神病院患者の方が「ず~~~っと、ず~~~っと」世界認識に長けているということが示され、そのことはこの映画がつくられた1960年代のヒッピー・ジェネレーションの、「フリークス」という思想に通じるものでもあるだろう。また、美術の世界で考えれば、ゴヤの描く悲惨で恐ろしい世界ではなく、ここにはブリューゲルの描くような「滑稽」な世界、に近いものがあるのではないだろうか。

 ラストにまた次の前線に送られそうになったプランピックは、全裸になって(それでもしっかり伝書バトの籠は手にして)修道院の尼僧の前に立ち、無事に皆が待つ「精神病棟」に戻れるのだが、このあたりはアメリカでの「前衛厭戦文学」ジョーセフ・ヘラーの『キャッチ=22』との親近性があることだろう。

 主演のアラン・ベイツという人は、日本ではそんなに知名度は高くないが、イギリスの演劇界の重鎮であられ、ある意味、「この人が出演しているというだけで、その映画は観る価値がある」ともいえる名優なのだけれども、20年ほど前に亡くなられてしまった。
 あと、この映画で観るべき、観られるべきはやはりジュヌヴィエーヴ・ビュジョルドの愛らしさで、昔はこの方の出演された作品はけっこう連続して上映されていたものという記憶もあるけれど、今ではそんな映画もたいていは今は容易くは観られなくなってしまったみたいだ。例えばアラン・レネの『戦争は終わった』、例えばデ・パルマ監督の『愛のメモリー』、そしてデヴィッド・クローネンバーグ監督の『戦慄の絆』などに出演されていたのだといえば、めっちゃ興味をそそられることだろう。そしてこの『まぼろしの市街戦』では、チュチュを着て思いっきりコケティッシュな姿を見せてくれていたのだった。