ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』(2018) テリー・ギリアム:脚本・監督

 原題は「The Man Who Killed Don Quixote」で、これは有名な「製作に難儀した呪われた作品」として、わたしもそのことはちょこっとは聞き知ってはいた。「もうこりゃ製作継続はムリだね」というところで、2002年には『ロスト・イン・ラ・マンチャ』っつうドキュメントも先に一般公開されてしまっていた。それがテリー・ギリアム監督の「執念」なのか、いつしか完成して公開されていたのだった。

 当初はジョニー・デップジャン・ロシュフォールとの主演が想定されていたというが、ロシュフォールが体調不良でリタイアし、ジョン・ハートにバトンタッチされるが、彼もまたガンの治療のために離脱。ジョニー・デップもまたスケジュールの調整が出来ずに離脱し、けっきょく、アダム・ドライヴァージョナサン・プライスとで撮影されることになる。ジョナサン・プライスなんかはもともとテリー・ギリアム監督作品の常連でもあったし、ここでも「イイ感じ」で飄々とドン・キホーテを演じている。アダム・ドライヴァーは、「なるほど、ジョニー・デップ以後にジョニー・デップ的な演技をやってみせられるのはこの人なのだな」と納得させられる。わたしはこの俳優さんはジム・ジャームッシュ監督の『パターソン』ですっかり気に入ってしまったのだけれども、もっとこの俳優さんの出演作は観てみたいな。

 実はこの映画、あんまり期待していないで観てみたのだけれども、テリー・ギリアムらしい「楽しさ」にあふれた作品で、脚本の「ひねり」も合わせて、けっこう気に入ってしまった。
 そこには「騎士道物語を読みすぎて、自分を<遍歴の騎士>と思い込んでしまった」というセルバンテス原作の『ドン・キホーテ』の主人公と、映画に登場する映画監督が学生時代の10年前に撮った卒業制作映画の『ドン・キホーテ』で、主役のドン・キホーテに抜擢されて「オレは<ドン・キホーテ>」と思い込んでしまった靴職人とが重なり合い、「虚構」と「現実」とのメタ構造を、そもそもが「虚構」である映画を通じて描きながらも、「現実」への視線をチラチラとみせてくれるテリー・ギリアムの手腕が楽しめるわけだ。
 ここに、その10年前の『ドン・キホーテ』でドルシネア姫を演じ、それからは「映画スター」を夢見るようになる居酒屋の娘もいい具合にからんでくるし、いかにもテリー・ギリアムがじっさいに体験したような、「映画製作」にまつわるクソみたいな「現実」もが、主人公の映画監督を打ちのめそうとする。

 脚本でうまいのは、まさにセルバンテスの原作『ドン・キホーテ』の構造を、主人公映画監督が10年前に撮った映画の『ドン・キホーテ』とをうまく重ね合わせ、登場人物らが映画スクリーン上のリアルタイムにいるのか、それとも監督が10年前に撮った映画の中に今なお生きているのか、いやそれとも、セルバンテスの小説中の人物に取り込まれてしまっているのか、非常に「あいまい」な世界で行動するようになり、そういうスクリーン上の世界がまさに、テリー・ギリアムのお得意な世界にまざまざになってしまうあたりだろうか。
 何度も何度も、あの有名な「風車との闘い」の場面が繰り返されるのだけれども(「何度も」といっても3~4回だったかな?)、それぞれがこの映画のストーリーの中で生き生きと生かされていたし、そんなスペインの現代の風景の中で、そんな「風車」が「風力発電」の風車に置き換わっているのも印象に残る。
 まるで「モンティパイソン」の、あの「黒騎士」を思い出させられるような「鏡の騎士」との楽しい決闘もあるし、けっこう「テリー・ギリアムの集大成」という感覚でもある(テリー・ギリアムにはまだまだ撮りつづけていただきたいけれども)。