ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-10-02(Sat)

 台風は海の彼方に消え去り、今日はすっかり晴天。気温も三十度を超えて暑くなった。ところが日も暮れて、わたしもベッドで本を読んでいたとき、スマホに「このあたりはもうじき激しい雨になるよ!」という豪雨予報が届いた。「まさか」と思って雨雲レーダーを見てみると、これは葛飾区のあたりだろうか、強い雨を示す真っ赤な色に塗りつぶされている区域があった。どうやらその雨域がこちらにやって来るようだ(しかし、「雨雲レーダー」は便利だ)。
 それからしばらくして、外から「これは雷鳴ではないか?」という音が聞こえて来た。そのうちにそんなかみなりの音はだんだんと大きく、間隔も短くなり、このあたりはすっかりかみなりに包まれてしまったようだった。
 ジェイムズ・ジョイスのようにかみなりが怖いニェネントくんは、それまでは窓際のキャットタワーの上で寝転がっていたのだけれども、「あれ?」と思ったらいつの間にかいなくなってしまっていた。「どこへ行ってしまったのだろう」と思ったら、ベッドの下の空間に避難、退避していたのだった(ニェネントくんがもうひとつ怖いのは近所の花火大会の花火の音なのだけれども、この二年間その花火大会は中止になっているのでホッとしている。でも来年はきっとやるだろうな~)。

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 そのうちに、窓の外からは激しい、打ち付けるような雨の降る音が聞こえて来た。これは、昨日の台風の雨よりもよっぽどひどい。まだ時間は8時ぐらいで、<緊急事態宣言>が解除されてさいしょの土曜の夜でもあり、台風も行ってしまったあとでもあるし、となりの駅周辺にはけっこう多くの人出があったのではないかと思うけれども、みんな傘など持ってはいなかっただろうし、えらい目に遭った人たちも多かったのではないかと思う。
 かみなりも雨も30分もせずに収まったようだったが、こういう「天気の急変」というのもあるのだなあと、おどろいてしまった。
 わたしはそのまま眠ってしまったが、しばらくして目が覚めてみると、ニェネントはいつの間にかベッドの下から出てきて、いつもの定位置のキャットタワーの上で丸くなっているのだった。

 昼間はまさに晴天だったので、早い時間に洗濯をして、北のスーパーに買い物に出た。とちゅう、歩道橋の上からは遠くに筑波山も見えるのだった(このあたりでは筑波山が見えたからとて、別に珍しいことでもないのだけれども)。

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 いつもの週ならば日曜日に買い物に出かけるのだけれども、今週はこうやって土曜日に買い物し、明日の日曜にはお出かけもやめようと思っていたのだけれども、買い物から帰ってみたら、買い忘れたものもあったのだった。外はどんどん気温も上がってきていて、もう出かける気にもならず、けっきょく明日にもまた買い物に出ようかということになった。

 テレビのニュースでは、繁華街や観光地などに人出が増えたことを伝えている。銀座の歩行者天国も半年ぶりに再開されたという。
 ここまでに感染者が激減したというのは、人々それぞれの防御対策の功もあっただろうし、ワクチン接種が進んだこともあるのだろう。しかし、どうも政府の感染対策の成果として感染者が減ったとは思えないところがある(もちろん、ワクチン接種の推進が大きな「感染対策」だということは否定しないが)。「なぜ感染者が激減したのか」という理由がしっかりと究明されなければ、次に予想される「第6波」への対策もなされないままになるのではないだろうか。

 今、ネットをみていると「反ワクチン」「反マスク」の声もさらに大きくなっているように思える。もうひとつ、わたしが最近気味が悪いのが皇室をめぐる報道での、その婚約者男性への熾烈を極めるバッシングのこともある。わたしはこの件について深く考えようとも思わないのだけれども、反応する人々の異常さにはあきれてしまう。
 皇室の人間はその発言にも常に「政治性を帯びないように」とか考えながら、言葉を選んで発言しなければならないし、端的に言えば国民一般に認められている「基本的人権」を持たない人たちだろう。今回の騒動は、「自分で結婚相手を決める」ということに、多くの「国民」という人々が異議を唱えるという異様さだろう。わたしの中では、「人の恋路をじゃまするヤツは、馬に蹴られて死んでしまえ!」という古い言説が思い出されるのだ。
 今日ちらっと、そういうバッシングのコメントを読んでみたのだけれども、その中に「国民の税金で食っているくせに、自分勝手な行動を取るのではない!」というのもあり、正直あきれてしまった。これは「生活保護受給者」や「障がい者」に一部の人々があびせるバッシングと同様の論拠であり、「そうか、皇室も生活保護受給者も、彼らにとっては同一なのだな」と思ったりする。

 わたしはこういう、今のネット上の乱暴な発言には大きな疑問を持っている。この「自分たちの税金で‥‥」というのもそのひとつだが、別のケースでは「表現の自由」主張の濫用ということもある。これは最近では「反ワクチン」発言の擁護で語られているのを読んだのだが、そういう非科学的な論であっても、「表現の自由」なのだから否定するなという論である。この主張はレイシストも語るところのモノだけれども、しかしこういう連中は、2年前の「あいちトリエンナーレ」での「表現の不自由展」には強烈なバッシングを行う連中とダブっているのである。ここには、彼らが「表現の自由」という主張をするならば、「我々もやろうではないか」という論理以前の意見があると思う。
 これはわたしの今感じているSNSや、一般に書き込めるニュースのコメントへの大きな「疑問」で、誤解を恐れずに書けば、つまり基本教養を持たない人たちは、どんどんと基礎教養不要の「安易」な論に足元をすくわれてしまうのだろう。そのような立場を擁護するために、イージーな「論破」というような「方法」も頼りにする人々がいる。そこには、「反知識」という傾向もあるように思う。いい傾向ではないと思う。

 今日は夕方から、「GYAO!」で『テリー・ギリアムドン・キホーテ』を観た。予想に反して、いかにもテリー・ギリアムらしい、楽しくもさまざまな思考を生む、いい映画だったと思う。