ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『チャイナ・ゲイト』(1957) サミュエル・フラー:脚本・監督

チャイナ・ゲイト(字幕版)

チャイナ・ゲイト(字幕版)

  • 発売日: 2017/09/06
  • メディア: Prime Video

 この作品はつまり「戦場モノ」で、映画が撮られたわずか3年前、1954年のインドシナ戦争末期が描かれている。というか、1954年というのはまさにフランス軍がベトミンに敗北することが決定的になる「ディエンビエンフーの戦い」の年なわけで、フランスの撤退後にアメリカが介入してきて「ヴェトナム戦争」へとなだれ込んでいくことになる。しかし、この映画では「ディエンビエンフー」などという言葉は出てこないし、そのラストでフランス軍は敗北したようにはとても見えない。いちおうインドシナの戦場というシチュエーションだけ借りて、あとは大幅にフィクションを盛り込んでいる映画だと思って観ればいいのだろう(そのあたりに問題は大ありだろうが)。

 この映画は、「チャイナ・ゲイト」と呼ばれるベトミンの占拠する山岳地帯、その山奥に隠されたベトミンの多量の弾薬を破壊するというミッションで動くフランス軍のゲリラ部隊の行動を主に描いている。このあたり、映画を観たあとでちょっと調べたのだけれども、じっさいにベトミンは中国とロシアから受け取った大量の弾薬を山岳地帯に隠し、フランス軍を攻撃していたという。設定は「史実」だということだろう。

 その少人数のゲリラ部隊だが、指揮をするのはブロック(ジーン・バリー)という男だが、現地の地形に詳しく、しかもベトミンとも通じていてこの作戦ではスパイ的に部隊を先導するのが、フランス軍指揮下の町でバーを営み、ベトミンにも酒を売っているというリア(アンジー・ディキンソン)という中国人との混血の女性で、彼女は「ラッキー・レッグス」と呼ばれ、じっさいにこの映画でさいしょに登場するときには、その美しい太ももをたっぷり見せてくれるわけである。町で彼女のそばにはアジア人らしい男の子がいるのだけれども、あとでそれがリアの息子だったとわかる。
 このゲリラ隊にリアが協力する背後には、いわく言い難い事情があるのだった。実はリアは5年前、ブロックと結婚していたという過去がある。そしてリアが子供を産んだとき、産まれた子どもを見たブロックはそれっきり、リアと子供を捨てたのである。リアの外見はほとんど白人で、混血ともわからないほどなのだが、産まれた子供はどうみても中国人だったのだ。ブロックはリアが混血であることは承知して(外見が白人だから)結婚したのだが、本質は差別主義者であるブロックは、産まれた子供のアジア人の「目」を見て衝撃を受け、それを「醜い」として捨てたのであった。
 ではなぜリアはこの作戦でブロックを手伝うかというと(最初に作戦の話を聞いてブロックと顔を合わせたとき、リアはモノも言わずにブロックを平手打ちして走り去ったのだったが)、作戦に参加する代わりに自分の息子をアメリカに送るという条件で受け入れたのだった。

 ブロックはリアといっしょに行動することになってもなお、「あの子の目は醜い」などと言うのだ。いわゆる「白人至上主義者」ではあろう。
 リアはベトミンの兵士にも知り合いが多いのだが、その「チャイナ・ゲイト」の指揮官らしいチャム少佐(リー・ヴァン・クリーフ)に結婚を迫られ、リアの子供といっしょにモスクワへ行って暮らそうと言われている。*1

 今まで2本のサミュエル・フラーの作品を観て、どちらも「アメリカの暗部」を捉えたような作品でもあったし、彼の映画作家としての主張の強さに感じ入ったわけだけれども、この映画でもまた、ブロックのような差別主義者のあり方を攻撃しているだろう。この映画は大ざっぱにいえば「白人の国」と「アジア人」との戦いなわけだけれども(チャム少佐がロシア人だったりするとまたややっこしいことになるが)、そういった当時のアメリカの白人が持っていたであろう「白人優位」の思考を攻撃しているのではないだろうか。
 そのことをはっきりさせるため、このゲリラ部隊(もともとが外人部隊のメンバーから成っている部隊だから、いろいろな国籍の人間もいる)にはゴールディという黒人兵士も参加していて、これをナット・キング・コールが演じている。彼もまた、ブロックの人種差別に嫌悪感を持っており、お前がが子供をアメリカに連れて行かないなら、わたしがアメリカに連れて行く」と言う。

 しかし、そうするとブロックは映画中で生き永らえそうもないのだけれども、実はこの作戦(リアの命を賭けた行動で成功するが)で生き残るのはブロックとゴールディの2人だけであり、映画のラストでブロックは「心を入れ替えたように」リアと自分との子供と手をつなぎ、奥へと消えていくのだ。

 ネットを見ていると、サミュエル・フラーがその「自伝」でこの映画について語っている部分が引用されているサイトを見つけてしまったので、わたしもそれをここに孫引きさせていただく。

「理解と寛容を訴えたかったのだ。さまざまな夫婦、さまざまな人間、さまざまな民族同士が共生してゆくために欠かすことのできない理解と寛容を。......民主主義が消え失せてしまわないことを祈っている。われわれの子どもたちが戦争などもう起こらない未来を過ごせるように、もっと思いやりのある世界規模の考え方をするのが、この地球という名の小さな惑星に生きる人々の責務である。」

 サミュエル・フラー、やはり強い意志の持ち主である。
 そしてこの映画もまた、「映像作家」としてのフラーの技術をもまた、しっかりと見せてくれる。特に冒頭に、そのリアの子供が登場してから、カメラがずっと子供を追って行き、クレーンなども駆使しながらリアのもとへ(というか、リアの美しい足のもとへ)たどり着くまでの演出の見事さには、もう目が離せなくなるのだった。

 主演のアンジー・ディキンソンは、後年のデ・パルマ監督の『殺しのドレス』で知っている俳優さんだが、50年代はテレビを中心に活躍、日本でも彼女主演の『女刑事ペパー』が放映されていたが、やはりその「脚線美」が売りだったようだ。ジーン・バリーもやはりテレビで活躍された方で、『バークにまかせろ!』は日本でも人気だった。実はジェームズ・ボンド役の候補に何度も上がった俳優さんだったらしい。
 

*1:リー・ヴァン・クリーフの役どころは「中国人」なのか、それとも「ロシア人」なのか、その名前からもよくわからないのだけれども、映画の中で彼が「オレは中国顔だから」みたいなこと言って、わたしは「どこがあ~っ!」と、呆れてしまうのだった。