ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『死刑執行人もまた死す』(1943) フリッツ・ラング、ベルトルト・ブレヒト:原案 フリッツ・ラング:監督 ハンス・アイスラー:音楽

 『マン・ハント』につづいて、フリッツ・ラング監督にとって2本目の「反ナチス」作品。この映画でわたしが驚いたのは、ストーリー原案にベルトルト・ブレヒトも関わっていたということと、音楽をハンス・アイスラーが担当している、ということだった。原題は「Hangmen Also Die!」。

 映画はナチス・ドイツ占領下のチェコベーメン・メーレン保護領)で1942年に実際に起きた、ナチス・ドイツベーメン・メーレン副総督、ラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件を題材としたものだが、この映画が公開された1943年にはまだ、この暗殺事件の真相(「エンスラポイド作戦」)は知られておらず、そういう意味では、史実を変えて観客の「反ナチス」感情を鼓舞する「プロパガンダ映画」ではあるということ。

 映画は冒頭ですぐに、プラハにおけるレジスタンスによるラインハルト・ハイドリヒの暗殺を描き、以後は暗殺犯のひとり、医師のスヴォボダ(ブライアン・ドンレヴィ)がプラハ市民らの協力を得て身を隠す展開と、暗殺犯を必死で捜索するゲシュタポの姿とが描かれる。ゲシュタポは無実のプラハ市民850人を拘束し、ラジオで暗殺犯に「自首しなければ人質を毎日処刑する」と告げるのだった。
 スヴォボダの逃走を目撃し、彼が身を隠すのを手伝ったのがマーシャ(アンナ・リー)だが、マーシャの父のノヴォトニー教授(ウォルター・ブレナン)はマーシャが家に連れて来たスヴォボダと会い、彼が「暗殺犯」と確信するが、彼のことは隠し通そうと心に決める。そもそもノヴォトニー教授はナチスに睨まれていた人物で、暗殺事件とは無関係にゲシュタポに拘束されてしまうことになる。
 マーシャは父を釈放させるために、いちどはスヴォボダのことをゲシュタポに密告しようとはするのだが、プラハの市民が皆ナチスを憎み、暗殺犯のことをゲシュタポから守ろうとしている姿勢を見て、密告を思いとどまるのだった。しかしゲシュタポのグリューバー警部はそれでもマーシャを疑い、マーシャがいっしょだったというスヴォボダが暗殺犯ではないかと推理している。マーシャの部屋に盗聴器を仕掛けたりするのだが、スヴォボダが盗聴器の存在に気づき、グリューバーの追及をかわすのだった。
 ゲシュタポは以前からレジスタンスの中にエミール・チャカという協力者を紛れ込ませているのだが、レジスタンスの会合の際、チャカがレジスタントらしからぬ提案をすることから皆の疑惑を呼ぶ。まさにチャカがゲシュタポの手先と判明し、レジスタンスの連中は一計を案じ、マーシャやスヴォボダの協力を得て「チャカこそがハイドリヒ暗殺犯だ」とする筋書きをつくるのだった。
 この筋書きを知らないプラハの市民らも、たちどころに「筋書き」を了解し、レジスタンスの計画を手助けするのだった。

 ‥‥ドラマとしてとってもスリリングで、面白く観た。じっさいの暗殺犯のスヴォボダ、暗殺犯と知らずに彼を助けてしまうマーシャとその家族、さらにマーシャの婚約者らのドラマ、そしてスヴォボダを追うゲシュタポの連中との錯綜した展開は面白いし、市民らが以心伝心でゲシュタポにウソを重ねて行くのも痛快。そしてナチスの連中、ゲシュタポの連中らのよく見慣れたようなステレオタイプな描き方も、今考えればこの映画から始まっていたのかもしれない。
 この1943年にはすでにアメリカも連合軍に加わっていて、大っぴらにもドイツはアメリカの敵なわけだけれども、「現在進行中」の、アメリカの関与しないヨーロッパの政治問題(この映画には戦争シーンは描かれていない)について、ここまで「事実」を無視して描いてしまうというのは、考えてみればすっごいことだなあ、とは思うのだけれども、それが「世界大戦」ということなのだ。ちょっと想像もしにくい事象だと思った。

 この映画の撮影監督は、長くハリウッドで活躍したジェームズ・ウォン・ハウで、フリッツ・ラングとの仕事はこの1作っきりではある。この映画でいつものフリッツ・ラングとは異なる、別の美学がはたらいているように感じてしまったのは、この撮影監督の力なのかもしれない。
 あと、この映画の音楽はなんとハンス・アイスラーが担当していて、アカデミー賞にノミネートされている。ブレヒト~アイスラーといえば、1930年代からブレヒトの歌詞でアイスラーが作曲したけっこう数多くの歌曲がドイツで発表され(わたしもそんなブレヒト~アイスラーのアルバムを持っていたことを思い出したが)、それらの歌曲がナチに禁じられたことがブレヒトにもアイスラーにも亡命の原因にはなったわけだ。そのドイツ時代から十年ぶりに二人が共作の機会を持ったというわけだけれども、ここではアイスラーは音楽に徹し、ブレヒトの詩に曲をつけるということはなされなかった。

 134分とけっこう長尺で、「冗長だ」という感想もあるようだけれども、わたしには緊張の途切れない134分で、疑問符がいっぱい頭をよぎった前作『マン・ハント』より、はるかに素晴らしい映画だとは思えたのだった。