これは「サイコ・ミステリー」とかいうのだろうか。そのつもりで観始めると「ん? これはなんか変だぞ?」という気になる。
Wikipediaによれば、この映画の公開当時には「この映画のラストはまだ見ていない人には決して話さないでください」と宣伝されていたというから、こうやって感想を書くことはその「お約束」を破る「ネタバレ」になるのかもしれない(もう公開されて14年も経ってるから、今さらラストを隠すこともないか?)。
冒頭から2人の連邦保安官、テディ(レオナルド・ディカプリオ)とチャック(マーク・ラファロ)とが連絡船に乗り、「シャッター アイランド」と呼ばれる孤島にある精神病院に向かっているわけだが、それはその病院からレイチェルという女性患者が失踪してしまったのを捜査するためだという。レイチェルは過去に自分の3人の娘を溺死させてこの精神病院に収容されているという。
‥‥変である。まことに変である。まず、なぜにただ収容されている女性患者が失踪したぐらいで2人もの連邦保安官が現地に行かなくってはならないのか。そ~んな重大事件でもなかろうに。それに、その患者が失踪したのはつい昨日のことだというのに、すぐ翌日には彼ら連邦保安官がその「シャッター アイランド」への1日1便しかない連絡船に乗っているというのは、ちょっと早すぎるのではなかろうか?
ま、これでレオナルド・ディカプリオがこの物語の「一人称の語り部」だったりすれば、まさに「信頼できない語り手」の語るストーリーというつもりで観て、「ディカプリオこそ狂人なのだ」と了解すればいいのだろうが、どうもストーリー展開はディカプリオによる一人称進行とは言い切れないわけで、その物語の設定は単なる一人の人物の妄想とは言い切れないのだ。しかししかし、ディカプリオはしょっちゅう、すでに亡くなってしまっているらしい自分の妻(ミシェル・ウィリアムズ)の幻影を見るのだ。妻は放火犯による放火で焼死したらしい。そしてディカプリオは、放火によって妻を殺した男がこの精神病院にいると思い込んでもいる。
そして物語は1954年のことなのだが、ディカプリオは戦時中、兵士としてナチスのダッハウ収容所の解放に立ち会い、ナチス兵士を虐殺したというトラウマも抱えているようだ。
この精神病院を取り仕切るのは冷酷そうなコーリー医師(ベン・キングスレー)で、もうひとりの医師ネーリング(マックス・フォン・シドー)は、彼自身精神異常者のように見える。そして収容されている女性患者らはまるでディカプリオを知っているように、「黙っていなさい」とか「逃げなさい」などというメッセージを彼に送るのだ。
けっきょく終盤には、やはりディカプリオこそがその精神病院の患者であって、彼にロボトミー手術を施すかどうかが病院側のこのときの懸案事項なのである。同僚連邦保安官と思っていたマーク・ラファロは実はディカプリオの主任医師であり、ここまで映画で描かれてきた「レイチェルの失踪」というのは、病院側がディカプリオに「現実認識」の能力があるかどうかの「テスト」的意味合いがあったのだ。その「テスト」の結果によって、ディカプリオにロボトミー手術を施すかどうかを決定するのだ(何と言っても1954年のことだから)。
しかし、そんなディカプリオという患者ただ一人を「どうするか」という問題で、ここまで病院中で「芝居」をぶつというのはけっこう不可解だし、タイミングよくハリケーンが島を襲うのなんかそういうのも含めて、ディカプリオの妄想の中では病院が総出で芝居を売っていて、あのハリケーンもまたディカプリオの「妄想」だったとか?
つまりは映画としても「はたしてどこまでが『病院の芝居』で、どこからが『ディカプリオの妄想』なのか、見分けてみましょう!」というようなところがあるのだろう。スコセッシ監督は撮る前にヒッチコックの『めまい』をスタッフ・キャストに観てもらったという。たしかに『めまい』では「ジェームズ・スチュアートの妄想」と「犯人の計画した芝居」とが混ざり合っていて、この『シャッター アイランド』と同じ構造なわけだ。ま、わたしには『めまい』の方がはるかに面白かったけれども、その原因は「病院側のお芝居」が大規模すぎること、そしてそんな「病院側のお芝居」と「ディカプリオの妄想」とが、『めまい』のように「罠」として交錯していないことにあるだろう。
ただ、ディカプリオのさいごの言葉、「モンスターとして生きつづけるか、善人として死ぬか」は意味深で面白いのだが。
あともうひとこと。冒頭のフェリーにジョン・キャロル・リンチも乗っていて、マーク・ラファロといっしょだったわけだから、「『ゾディアック』じゃん!(こんどこそ、ジョン・キャロル・リンチが真犯人だぜ!)」などと思ってしまったのだったが、ジョン・キャロル・リンチはそのあとはもう、登場して来ないのだった。