まず、わたしは今までブノワ・ジャコの監督作品を観たことはないので、この監督の作風などというものはいっさいわからないが、こうしてルイス・ブニュエル版、ジャン・ルノワール版と、2本のオクターヴ・ミルボーの『小間使の日記』の映画化作品をつづけて観たのだけれども、ストーリー的にはおそらく、この『あるメイドの密かな欲望』が原作にいちばん近いというか、忠実なのだろうとは思う。
ブニュエル版で描かれて、ルノワール版では出て来なかった「森での少女惨殺事件」はあるし、逆にブニュエル版には登場せずにルノワール版にだけ登場していたジョルジュも登場してくる。結末は3本それぞれ異なっているが、ブニュエル版もルノワール版もそれぞれ、このジャコ版と同じ結末になる可能性はあった。つまり先に結末を書いてしまうと、セレスティーヌはさいごにはジョセフといっしょになるというわけだ。ただ、セレスティーヌの派遣先のランレール家には「靴フェチ」の祖父はいず、これはこのジャコ版で省かれてしまったようだ。そういうえげつないシーンは監督は好きではないのかと思ったが、映画の冒頭でセレスティーヌがそのときの女主人と共に国境を越えるとき、その税関で女主人が「張型(ディルド)」を持っていたのが暴かれるという、えげつないシーンはちゃんと撮っているのであった(これは原作小説にも書かれていることらしい)。
さて、この映画ではセレスティーヌ(レア・セドゥ)の過去の奉公先などでの回想シーンが描かれていて、「貧しい下層階級の女性が生きて行くには、小間使いになるか娼婦になるかしかない」という、19世紀末のフランスの過酷な現実が描かれ、「ブルジョワジーへの侮蔑」ということよりも、そのような「運命への呪詛」こそがセレスティーヌの心情なわけで、そこから彼女の「歯に衣着せぬ物言い」が生まれる、ということになるようだ。ただこの映画ではそんなセレスティーヌの「生意気な」ことばは主人に聞こえるように、というよりは「ひとりごと」っぽくはある。映画のなかで、仕事のあてもなくパリの街をさまようセレスティーヌが娼婦館の女主に呼び止められ、カフェで仕事に誘われて連絡先の名刺を置いて行かれるシーンがあるが、残されたセレスティーヌの眼から涙があふれ落ちるという、印象的なシーンがあった。どうやらセレスティーヌには娼婦の体験もあったようだ。
ルノワール版でさいごにセレスティーヌと結ばれるジョルジュは、この映画では以前の奉公先、祖母と孫との二人暮らしの家庭の孫だったわけで、海辺近くの家でのジョルジュとの暮らしは、セレスティーヌにとって幸福な思い出なのだった(やはり胸を病んでいるジョルジュは、セレスティーヌとのセックスのさいちゅうに死んでしまうのだが)。
時代は原作と同じく19世紀末、まさに「ドレフュス事件」の頃のことで、ブニュエル版と同じようにジョセフは「反共和制」「王党派」として政治運動を行っていて、ユダヤ人への憎悪も激しく、「ユダヤ人の腹をナイフで切り裂いてやりたい」などと言うわけで、その言葉からセレスティーヌは、森で少女を殺したのはジョセフだろうと思うことになるのである。
ジョセフを演じているのはヴァンサン・リンドンという俳優で、寡黙で得体の知れないジョセフという男を好演していて、この映画で何かの男優賞を受賞しているようだ。かなりいい歳で無口で「反共和制」、しかも殺人犯かもしれないというこの男に、なぜセレスティーヌが惹かれてしまうのかということだけれども、彼のほかには小間使にセクハラするばかりのような腑抜けた男しか出てこないなかで、その「男らしさ」にほだされる気もち、わからないでもない気がする。
そのセレスティーナを演じているのは、もはや国際的に活躍するレア・セドゥで、「運命には負けない」という強気の女性をしっかり演じていたと思うし、やはり人気があるだけの魅力は感じるのだった。
2本つづけて白黒の映画を観たあと、この映画(オールロケ、だろう)のカラーの美しさには「きれいだなあ」と思ってしまったことは確かだったし、屋敷の中や敷地を歩いて行くセレスティーヌ、屋敷で仕事のために何度も階段を上り下りするセレスティーヌを追うカメラは、そこに彼女の「労働」をあらわすようでもあり、印象に残るのだった。
