ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ペスト』(1947) アルベール・カミュ:著 宮崎嶺雄:訳

 2020年の「コロナ禍」で、ふたたび全世界で読まれるようになった小説。わたしは持っている文庫本のページに折り目がつけてあったことなどから、はるかむかしにこの本を読んでいたことがわかったけれども、やはり内容はこれっぽっちも記憶しておらず、持っている本は古びているけれども、読むのはこれが初めてのことだと思っていた。まあ過去に読んだことがあったらしいなどということはどっちにせよ記憶していないわけだし、いま読む上ではまったく無関係だけれども。

 わたしがこの本により強く感情移入したのは、ちょうど読み始めたときに「コロナ禍」の際の「ダイヤモンド・プリンセス号」の横浜入港・隔離から5周年になった、というニュースをみたことによる。ニュースをみて、そのとき「ダイヤモンド・プリンセス号」に乗っていて隔離された3700人もの人たちに思いを馳せたとき、読み始めていたこの『ペスト』と重ねてそのことを考え、よりリアルな思いを持って読み進めることになったように思う。そしてこの本は、わたしに大きな感銘を与えてくれることになった(わたし自身の5年前の「コロナ禍」の体験は、「引きこもり」と同じ状態だったわけだから、この本と重ねて考えるわけにはいかなかった)。

 『ペスト』はフィクション、つまり小説で、当時のフランス領アルジェリアのオランという実在の都市で起きたペストの流行、ということが書かれている。ペストの蔓延によってオランの市全体が隔離され、市内にいた人々は旅行者であろうと市内に留めおかれ、市外とのやりとりも大きく制限されてしまう。そんな中、この小説に描かれた人たちは、とつぜんに襲って来た「ペスト」という「不条理」に(他の市民と同じように)立ち向かわざるを得ない。その、それぞれの「立ち向かい方」を追ったのがこの小説、といっていいんだろう。

 主な登場人物はもともとオランの医師だったリウー、そしてちょうどペストが拡がるときにオランに来ていたタルー、同じく取材で来ていたジャーナリストのランベール、そしてこの市のイエスズ会の司祭のパヌルー神父、ひょっとしたら犯罪者だったのかもしれないコタールという男ら、である(もちろん他にも脇役的人物はいろいろ登場するが)。
 それぞれの人物がこの「ペストの蔓延」にいやおうもなく遭遇し、それぞれの異なった考え、思想から、対処法を発露することになる。

 かんたんにそれぞれのモティヴェーションを書けば、リウーはそもそも医師だから、いやおうもなくペストに立ち向かわざるを得ないが、彼はそのことを「使命」と認識するだろう。しかし患者に血清を投与するぐらいしか対処法もなく、患者数は増加するばかり。あとは自然に鎮静化するのを待つしかないのか。
 タルーは敢然と「ペストと戦う」と、心に決めた人だ。市の有志でボランティアをつくるというアイディアをリウーに話し、実現する。彼は検察官だった父への反発から、死刑に反対するヒューマニストであった。
 ランベールはパリにいる恋人に会いたいと願い、オランを何とか脱出しようとし、何度か密輸業者と連絡する。しかしいざ「脱出できる」とわかったとき、「今、個人的な幸福を求めるのは恥ずかしいことだ」と、市に残ってボランティアを続けることを決める。
 パヌルー神父は、経験もあり尊敬を集める司祭ではある。彼は市民に対して重要な説教を2回行う。さいしょに、「ペストは神が送った災厄であり、同時に神は救いと希望を与えるために存在する」と語る。のちに目の前で少年がペストで息絶えるのを見たあと、「罪のない子供の死は信仰の試練だ」というようなことを語る。
 コタールはさいしょリウーが出会ったとき、自殺未遂から助けられた人物だった。しかしペストが市に蔓延したあと、かえって明るく陽気になる。彼は小説のなかでほとんど語ることはないが、「自分のネガティヴさはペスト禍によって市民皆のネガティヴさと同じになる」と考えていたのかもしれない。

 小説のなかで、登場人物らはダイレクトに「自分の考え」を語り合う場面が多く、それなりの緊張感もはらんでいるのだけれども、そこにはそれぞれに「人は何によって生きるのか」という思考があるのではないかと思えた。
 そういうところでわたしには、小説のなかの「ペスト禍」という状況のもと、その不条理のなかから「生きるとは?」と互いに問いかけるような、「小説の根源」を問うような作品ではないのかと読み取り、受ける感銘もひときわ大きかった。
 その感銘は登場人物それぞれから受けるものでもあって、「誰が主役」というのではない、それぞれの異なる「運命」を描く、まさに「群像劇」として力強い作品だと思った。そこにあるのはたんじゅんに「ヒューマニズム」ということばなどで包括できない、さまざまな「屈折」ではあった。そこにまさに、「生きるとはこういうことだ」という、カミュのことばが聴き取れる思いもした。

 Wikipediaをみると、この小説での「ペスト禍」とは「ナチス・ドイツを始めとするファシズムの諷喩であるとする解釈が一般的である」と書かれているが、たしかにペストの脅威が去ったあとの描写には、第二次世界大戦終了時、「ナチスからの解放」に似た空気も読み取れるように思った。
 また、時代的にヨーロッパでは「人民戦線」の時代でもあり、タルーという人物のなかに「人民戦線」的な指向性も読み取れるのだろう。しかし小説のなかに「キリスト教」は出てくるけれども、「コミュニズム」についてはひとことも語られることはない(右翼の人物なら「ペスト」こそが「コミュニズム」の暗喩だ、などとのたまうだろうが)。わたしはカミュは意識的にコミュニズムについて語ることを避けているようにも思え、『反抗的人間』という著作もあるカミュという人物、もっとアナーキズムに近しい思想を持っていた人なのではないか、などとは思うのだった(こののち、カミュマルクス主義に傾倒していたサルトルと対立し、はげしい論争を行ったことはよく知られている)。
 また、パヌルー神父であらわされる「キリスト教的な救済」についても、リウー医師は賛同していないし、カミュは否定的だったのではないかと思う(パヌルー神父の「説教」が正統なキリスト教的なものかどうかはわたしにはよくわからないが、これは「異端」に近いと書かれている人はいた)。
 この『ペスト』を読み終え、わたしは次にその『反抗的人間』を読みたく思ったのだけれども、残念なことに今は絶版になっているようだ。