ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『宇宙戦争』(1953) H・G・ウェルズ:原作 バイロン・ハスキン:監督

 何となく観る前の思い込みで、「古くにつくられたこの『宇宙戦争』こそ、H・G・ウェルズの原作に忠実につくられたのではないか」とは思っていたし、確かに昨日観たスピルバーグ版の『宇宙戦争』とはずいぶんと異なる内容ではあった。

 こちらの主人公はクレイトン・フォレスタージーン・バリー)という科学者で、休暇で仲間とキャンプに来ていたカリフォルニアの小さな町で、近くに隕石のような物体が落下したのを目撃し、その物体の調査をすることになる。
 その夜、クレイトンらが町でダンス・パーティーなどに参加していたあいだに、その落下物のハッチが開き、近くにいた人々を熱線で攻撃するのだった。落下物からは、3台の魚のエイのような形をした飛行物体が飛び出し、あたりを熱線で攻撃し始める。同様の「マシン」と呼ばれる物体は世界中のあらゆる都市にあらわれて攻撃し始めていた。
 軍隊がその飛行物体を攻撃するが、飛行物体はバリアーで攻撃を遮断しているのだった。
 おそらくは火星から来たと思われる「マシン」の攻撃は拡がり、クレイトンはパーティーで知り合ったシルヴィア(アン・ロビンソン)という女性とセスナ機で町を脱出するが郊外で操縦不能になり、不時着してしまう。
 二人は無人の農家に逃げ込むが、そこにも「マシン」が近づいてきて、「マシン」の中から伸び出てきた、先端に「眼」のあるケーブルが二人に迫ってくる。クレイトンは斧でそのケーブルを切り落とし、さらに姿をあらわしたエイリアンをも傷つけて退却させる。

 クレイトンは「マシン」から切り落としたケーブルと、エイリアンの血液を自分の研究室に持ち込んで調査し、エイリアンの弱点を探ろうとする。一方、アメリカ政府はエイリアンに対して原爆の使用を許可し、ただちにエイリアンへの核攻撃を行ったが効果はなく、エイリアンは攻撃を続け、ロサンゼルスに近づいてくるのであった。人々はさらに混乱して郊外へ避難しようとし、クレイトンとシルヴィアもその混乱に巻き込まれ、ロサンゼルスで離ればなれになってしまう。
 「マシン」によって攻撃され始めたロサンゼルスの街の中でクレイトンはシルヴィアを探し、ようやっと教会の中で二人はめぐり会う。そしてそのとき、「マシン」はその明かりを消して、地上に次々に落下し始めるのだった。

 う~ん、昨日観たスピルバーグの『宇宙戦争』が、『ゴジラ-1.0』的なものだとするなら、今日観たバイロン・ハスキン監督の『宇宙戦争』は、1954年の第一作『ゴジラ』に匹敵するもの、という感じだろうか。つまりスピルバーグの『宇宙戦争』は、あくまで一市民の視点を守り、その主人公の視点のみでストーリーを展開させ、実は「今起きているのはどういうことなのか?」というのは「不明」なままだったりすたのだが、このバイロン・ハスキン監督の『宇宙戦争』は、やはりクレイトンという科学者の視点で描いているのだが、彼は科学者という立場からも、「攻撃してきているエイリアンはどういうもので、世界のどの範囲が攻撃を受けているか」ということも理解している。そういう点で「個人の視点」ではあっても「俯瞰的視点」を持つ、特権的視点でもあるわけだ。

 もっとスピルバーグ版とこのバイロン・ハスキン版を比べてみるなら、スピルバーグ版でちょびっと不自然にオープニングとエンディングで「ナレーション」が使われていたのは、このバイロン・ハスキン版に倣ってのことだったのだろうとわかる。
 さらに、スピルバーグ版で主人公らがハドソン川のフェリーに乗ろうとするときに暴徒と化した群衆に飲み込まれてしまうのは、バイロン・ハスキン版ではもっと後半になって、ロサンゼルスから避難しようとする群衆が暴徒化するさまが描かれている。そして、主人公らが無人の農家へ逃げ込み、そこでエイリアンに襲われるという展開は同じだ。
 また、スピルバーグ版で娘がパニック障害気味に絶叫を繰り返すという展開も、バイロン・ハスキン版でのシルヴィアから引き継がれた描写だと思える。

 しかしH・G・ウェルズの原作は19世紀末のロンドンが舞台なわけで、いろんな点でこの2本の映画とは別物ではあるらしい。「無人の農家でエイリアンに追われる」とか「避難民が暴徒化する」とかというのは原作にあるらしいが、主人公が農家に逃げ込むのは、原作では副牧師といっしょらしい(スピルバーグ版のティム・ロビンスには原作の副牧師像があるらしいが)。
 このバイロン・ハスキン版では「トライポッド」は登場せず、「マシン」と呼ばれるUFОのような飛行体があらわれるが、これは当時は「トライポッド」を映像化することが困難だったためらしい。
 また、スピルバーグ版の終盤にはエイリアンが持ち込んだらしい「赤い植物」があらわれるけれども、これはH・G・ウェルズの原作どおりらしい。

 トータルに観たわたしの感想として、このバイロン・ハスキン版はまさに「地球が火星の生物に襲われたらば?」という驚きと恐れを、まさに「SF映画」として描いた作品だと思うし、昨日観たスピルバーグ版は、「一個人がわけのわからない混乱に巻き込まれたならば?」という「パニック映画」的な側面も強かった、とは思うのだった。両作品が狙うものは異なるものなのだから、この2作を比較して「どっちが上か」とか問うのは無意味だろう、とは思う。