ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『エイリアン』(1979) リドリー・スコット:監督

 昨日観た『宇宙戦争』は、宇宙からモンスター的なエイリアンがやって来て地球を破壊する、というものだったけれども、この『エイリアン』では、人類がまだ訪れたこともない宇宙の果ての惑星に行き、そこにいたエイリアンが宇宙船に侵入し、乗組員を攻撃するという展開。
 1960年代になると、人類がじっさいに宇宙へと飛び出すようになり、SF映画でも以前よりもリアルな「宇宙船」を舞台にした作品が増えてくる。この『エイリアン』や、『2001年宇宙の旅』、『惑星ソラリス』などもそういう作品だ。
 そんな中でも、この『エイリアン』は伝統的な「幽霊屋敷」的な展開を宇宙船内でやってのけた、というあたりが人々を惹きつけたのだろうか。それで、「宇宙船」といえば映画的には「未来テクノロジー」をふんだんに盛り込んだ、まさに「見たことのない未来」的なものを描くことが多かったけれども、この『エイリアン』ではその宇宙船は「資材運搬用の巨大タンカー」のような宇宙船で、「廃墟」ではないけれども、奥の方でははるか上の方から水がしたたり落ちてきているし、現場作業員的なブルーカラー・メンバーも乗り込んでいる。そういうところでまず、「宇宙船」といえば「超スマート」で、「宇宙船の乗組員」といえば「超エリート」だろうという通念を壊しているあたりがいい。ネコだって乗ってるし。

 脚本のダン・オバノンは1970年代の初めからこの脚本を書き継いでいて、「宇宙のジョーズ」としてあちこちに売り込もうとしていたという。彼はゴードン・キャロル、デヴィッド・ガイラー、ウォルター・ヒルからなる、20世紀フォックスとつながりの深いプロデューサー・グループにも売り込んでいたが、そんなときに20世紀フォックスでは『スターウォーズ』が驚異の大ヒットをしてしまい、同社としてはすぐには『スターウォーズ』の続篇もつくれないから、「何でもいいからすぐに、<宇宙船>の登場する映画を撮ろう」という空気になり、そんなときに20世紀フォックスの身近にあった「宇宙船モノ」の脚本が、この『エイリアン』なのだったという。
 20世紀フォックスはプロデューサーでも監督でもあるウォルター・ヒルにこの監督を任せたかったらしいが、彼は『ロング・ライダーズ』を撮ろうとしていたところだったし、多くの監督は「SF映画」というものにまだ偏見を持っていて、依頼を断ってくるのだった。プロデューサーの3人はイギリスの監督、リドリー・スコットのデビュー作『デュエリスト/決闘者』を観て気に入り、彼に『エイリアン』の監督を任せようと考えたのだった。そのとき、リドリー・スコットは公開された『スターウォーズ』を観ていて、「あのような映画を撮りたいものだ」と思っていたらしい。
 キャスティング選考はアメリカで、リドリー・スコットとゴードン・キャロルとが俳優たちとの面接を行ったらしいが、20世紀フォックスはけっこうこの作品に賭けていたようで、それまでのSF映画では考えられないような、主演級の俳優の出演を望んだのだった。ここでも俳優たちの中には「SFなんかに出たくない」という人がけっこういたらしい(出演しているハリー・ディーン・スタントンも、「SFやモンスター映画は好きじゃない」って言っていたらしいが)。

 主演のリプリーの役にはさいしょ、何とメリル・ストリープが候補に上がっていたらしい。最終的に選ばれたシガニー・ウィーバーは監督のリドリー・スコットのようにデビューしたばかりという感じだったが、オーディションの演技で皆を驚かせ、選ばれたという。
 もう一人の女性航海士のランバートにはヴェロニカ・カートライトが選ばれたけれども、彼女の妹のアンジェラ・カートライトは姉よりも早く、テレビの『宇宙家族ロビンソン』に出演して「宇宙旅行」の先輩なのだった。しかしヴェロニカ・カートライトはヒッチコックの『鳥』やフィリップ・カウフマンの『ボディ・スナッチャー』などのホラー映画の出演経験があるのだった。わたしは彼女の「恐怖」の演技は見事なものだと思った。
 ジョン・ハートイアン・ホルムらの出演者もすでにキャリアのある名優だったけれども、全体的に出演者の平均年齢が高くなったことも、作品の「シリアスさ」を印象付けることになっていると思う。
 そしてそれ以上にこの映画を「傑作」へと持ち上げたのは、H・R・ギーガーによるエイリアンのデザイン、だっただろう。それも「エイリアン」本体だけでなく、「フェイスハガー」や「チェストバスター」と呼ばれる幼生の姿、その登場の仕方も強烈だったし、「スペースジョッキー」と呼ばれる、エイリアンの犠牲になった異星人のセットも、驚くべきものだった。

 さいしょの展開は、1951年の『遊星よりの物体X』からの転用もあるみたいだけれども、そのあとエイリアンが宇宙船のどこかに姿を消してしまってからは、そのエイリアンが「黒づくめ」で牙が印象的なこともあり、「ドラキュラ映画」的な展開でもあるように思えた。
 ハリー・ディーン・スタントンがいなくなったネコを探しに行き、「Kitty, Kitty!」な~んてやってるとき、それで思いっきり「死亡フラグ」が立ってしまっているのも、決まっていた。

 たいていの人がこの映画、そして「エイリアン」そのものにさまざまなメタファーを読み取ることと思うけれども、主人公が女性であっただけに、エイリアンの「レイピスト」的な男性的暴力性が際立ったと思う。このことは、イアン・ホルムが実はアンドロイドで、シガニー・ウィーバーの口に丸めた雑誌を突っ込んで殺そうとしたシーンがあり、実は「エイリアン」を地球に持ち帰ろうとしていたそのアンドロイドと、「エイリアン」との親和性というものも露わになっていた。
 これが主人公が男性だったらばそのあたりは微妙になっただろうし、「相手に卵を産み付ける」という、エイリアンの「メス」的な行為が、また別の意味を持っただろうとも思う。

 「SF映画」としての評価は高く、どんな「歴代SF映画のトップ10」でもランクインしているみたいだ。わたし自身も、「やっぱり面白い映画だったなあ」とは思うのだった。