作品のプロデューサーにピーター・ジャクソンの名前があり、そういうところでも期待を持たせられた作品だったけれども、たしかにいろいろとユニークで面白い作品だった。
南アフリカの都市(ヨハネスブルグ?)の上空に巨大な宇宙船がやって来るのだけれども、都市上空に静止して浮いたまま、まったく動かないのだ。軍隊が宇宙船内部を探索すると、宇宙船内には異様な数のエイリアンがいたのだった。いちおう2本足歩行をし、腕も2本という人類と同じような身体なのだけれども、その容貌は人類から遠く離れ、甲殻類か何かみたいである。
どうやらその宇宙船の操縦スタッフらは死亡してしまったらしく、残っているのはその宇宙船の操縦も出来ない「難民」同然の何万というエイリアンだけのようだった。
軍隊はエイリアンらを地上の「第9地区」という隔離地区に移送し、「NMU」という組織がそれらエイリアンらを監視する体制ができた。その「第9地区」はまさに、かつての南アフリカの人種隔離政策(アパルトヘイト)の再現であり、地区の様子も当時のソウェトの貧民街に酷似していた。
エイリアンと人類とのコミュニケーションは取れるのだが、エイリアンらは建設的な思考、行動が取れるようでもなく、人々はそんなエイリアンらをその外見からも「エビ」と呼んで差別するのだった。
さて宇宙船の登場から28年が経ち、エイリアンらの数も増加し、「NMU」はエイリアンを新しい「第10地区」に移住させることになる。エイリアンらに移住を承認させるために、「NMU」のヴィカスという男がエイリアンらの住居をめぐって歩く。
お調子者で危機意識も薄いヴィカスは、エイリアンの住居にあった黒い液体を不用意に体に浴びてしまい、その身体に変異が起こり始める。「NMU」はヴィカスを実験台として生体実験しようとするのだが、スキをついてヴィカスは逃走し、第9地区へと逃げ込むのだ。そこでヴィカスはクリストファーというエイリアンと出会い、クリストファーが他のエイリアンと違う高い知性を持っていることを知り、共に行動することになるのである。
けっこう前半は「モキュメンタリー」風というかドキュメンタリー・タッチの演出で進行し、ヴィカスがフィーチャーされるところからドラマ展開になる。
特にその前半はまさに、かつての南アフリカのアパルトヘイトの再現のような映像が続き、白人の「監視組織」、そして現地人のギャング団のような存在によるエイリアンへの密売、搾取(エイリアンらは宇宙船から持ち出したメカを所有していたりする)をおこなっている。あまりに南アの「アパルトヘイト」を思い出させられるけれども、21世紀の現代となっては、世界に拡がる「難民問題」を想起させられるだろうか。
しかし、脚本も書いた監督のニール・ブロムカンプは、「この作品は政治的な映画ではない」とは語っていたという。
この作品の面白いところは、そのエイリアンが乗って来た「宇宙船」が今こそは動くことはないが、人類もその宇宙船をいかんともしがたい。しかも、この映画の後半では、クリストファーというエイリアンが宇宙船を動かす技術を持っているかもしれないということになり、「NMU」に追われているヴィカスがそのクリストファーの味方になっているという「力関係」にあるだろう。そして、ヴィカスは彼の身体変異によって、その身体は半分エイリアンになっているわけだ。ここで、クリストファーと彼の幼い子とヴィカスとの友情というか、ほっこりとした関係も描かれるし、ユーモアを交えた演出も、ヴィカスを追う「NMU」とのサスペンスと、いい感じのバランスが取れていたと思う。
どうしても、政治的なことも含めて、この映画の中に現実への「寓意」を読み取りたくなってしまうのだけれども、あまりそういうことに足を取られることなく、素直にストーリー展開の妙を楽しむのがいいのだろう。