ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』(2000) 手塚昌明:監督

 ゴジラミレニアムシリーズ第二作。ミレニアムシリーズは一話ごとにストーリーはリセットされるようで、今回も第一作『ゴジラ』以降の展開はなかったことにされ、しかも第一作『ゴジラ』の東京襲撃で、日本の首都は大阪に遷都されているというパラレル・ワールド。
 そのあと1966年には再びゴジラが日本を襲っていて東海村原発を破壊、核エネルギーを吸収しているのだ。よって日本は以後「原子力発電」を放棄、科学技術庁が先導して「プラズマ・エネルギー」の開発をしていたのだ。しかし大阪の「プラズマ・エネルギー」研究開発所もまたしてゴジラに襲われてしまったのだった(ゴジラはプラズマ・エネルギーも好物らしい)。
 このとき、ゴジラの襲撃で上司の隊長の死を目の前で体験した辻森桐子(田中美里)は、復讐心からも「打倒ゴジラ」を誓うのだった。
 今回、対ゴジラ対策本部が開発したのは、小規模の人工的なブラックホールを発生させ、標的を消滅せしめるブラックホール砲、「ディメンション・タイド」なのである。
 しかしその実験過程で、古代の巨大トンボ、「メガネウラ」の卵が現代に現れてしまうのだ(映画では「メガニューラ」という名前になっているが、古代生物に興味のある人には「メガネウラ」とよく知られているトンボだ)。その卵を偶然見つけた小学生の昆虫マニアの早坂淳はその卵を持ち帰り、不気味に思って渋谷の下水道に捨ててしまうのだ。
 「ディメンション・タイド」は人工衛星から地上に照射される計画が実行され、ついにゴジラを小笠原の無人島におびき寄せ、そこを「ディメンション・タイド」で狙い撃ちする計画が進む。しかしそんなときに渋谷でメガネウラが羽化・成長して増殖し、無数の「メガニューラ」となり、下水道機能の破壊された渋谷は水没してしまう(ここで、渋谷のビルの壁に無数に貼り付く「メガニューラ」は、けっこうゴキブリの大群みたいでおぞましい描写だ)。
 そのメガニューラはゴジラの体内エネルギーに引き寄せられたのか、その無人島に上陸したゴジラのもとに飛来して群がり、「ディメンション・タイド」の発射を狂わせてしまうのだった。ただ、大半のメガニューラは「ディメンション・タイド」によって姿を消してしまう。
 それでもゴジラのエネルギーを吸収した生き残ったメガニューラらは渋谷に舞い戻り、水中に誕生してた巨大な親メガニューラ、「メガギラス」にエネルギーを与えるのだった。メガギラスは地上に姿をあらわし、あたりを破壊するのだ。
 そこに、ゴジラがお台場に上陸して来て、メガギラスと戦うことになる。「対ゴジラ対策本部」は「ディメンション・タイド」を使って、ゴジラとメガギラスの双方を消滅させようとする。

 ‥‥うん、面白かった。ある意味突拍子もなく、ご都合主義も散見するとはいえ(それがどうしたというのだ?)、ストーリー展開は起伏もあったし、登場人物も「まっすぐ」なヒロイン、お調子者で軽いノリの天才的エンジニア(谷原章介)、過去の『ゴジラ』作品へのオマージュでもある女性科学者(星由里子)、「対ゴジラ対策本部長」(伊武雅刀)と、いい具合にバラエティに富んでいたし、何よりも「見せ方」という意味での「演出」もよかった。前作のように登場人物らがただ並んで怪獣らの暴走を眺めるだけというシーンもなかった。
 わたしは古代生物のファンでもあるので、ここでの「怪獣」としてのメガギラスの横暴も、観ていて楽しかったのだ。尻の先に毒針みたいなものを持っていて、「トンボ」というよりも「アブ」というところもあったのだが、そういう「昆虫らの恐ろしさ」を造形化していたということで素晴らしいし、けっこうゴジラも苦戦してたみたいだ(そりゃあ、あんなデカいアブに襲われたら負けるぜ!)。ゴジラの起死回生の「大ジャンプ」には、つい笑ってしまったが。

 監督の手塚昌明という人は、この作品が初監督作品ということで、今までのゴジラシリーズで監督デビューした人はたいていあかんかったわけだけれども、この方の演出は良かった。このあとこの方は『ゴジラ×メカゴジラ』、『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』も監督されているようだ。
 あと、とても良かった音楽のことも賞賛しておきたい。

 この作品はアメリカでは劇場公開されなかったが、否定的批評にまじって、「昭和以降のゴジラ映画の中では最高ではないが、『ゴジラ対メガギラス』は最も面白い作品の一つだ」という評もあったし、ある批評家はこの映画を「シリーズの真の古典」と呼び、「キャンプ的な価値を求めているのか、シリアスな巨大モンスターアクションを求めているのかに関わらず、多少は楽しませてもらえないはずはない。この作品には、[怪獣]ジャンルに求められるものがすべて揃っている」と、けっこうベタ褒めしているのが目を惹いた。わたしもけっこう、その批評には同意するのであった。