ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ゴッドランド/GODLAND』(2022) フリーヌル・パルマソン:脚本・監督

 脚本と監督のフリーヌル・パルマソンはアイスランドの人で、映画の舞台はほとんどがアイスランド(冒頭でわずかにデンマークが舞台となるが)。主人公の牧師のルーカスはデンマーク人で、この映画はアイスランドデンマーク、そしてフランスとスウェーデンとの合作である。

 わたしは「アイスランド」といえば氷河と火山の国、ビョークの国、そして日本と同じく捕鯨を行う国だということぐらいしか知らなかったが、長くデンマークに統治された国なのだった。

 時代は19世紀末。若い牧師のルーカスはアイスランドの西に教会を建てる任を受け、彼の趣味である写真撮影のための湿番写真機(これだけでかなりの荷物量になる)と通訳と、教会に立てる大きな十字架と共にアイスランドへ旅立つのだった。
 ルーカスは船の上で通訳からアイスランド語を学ぼうとするが、すぐに挫折してしまう。
 アイスランドの東岸に上陸したルーカスと通訳とは、目的地の西へとアイスランド人の案内のラグナルらと馬で旅をする(のちにルーカスは「なぜ一気に西海岸へと船で行かなかったのかね」と聞かれ、「いろんな人と出会って写真を撮りたかったからだ」と答えるが)。
 途中、越えるべき川が増水していて「2~3日待たねば」といわれるが、ルーカスは強引に「今行くのだ」と川に踏み込む。その結果、通訳は溺死し、十字架も流されてしまう。
 通訳もなく案内人との意思疎通もままならず、旅はいっそう過酷さを増す。ルーカスは「任務を放棄してデンマークへ帰ること」をも願うのだ。そしてルーカスは体調を崩し、ついには落馬して地に倒れてしまう。

 ルーカスが気づいたとき、彼は目的地の集落に来ていた。ラグナルらが気を失ったルーカスを運んでくれたのだった。
 集落にはデンマークから移住してきたカールと、その娘のアンナとイダとが暮らしていて、デンマーク語を話すことができた(イダはデンマーク語をほとんど話さないが)。教会の建設が進むが、カールはルーカスとは距離をとっている。それは年頃の娘があるゆえのことでもあるだろう。

 ここまでの演出は、ワンシーンワンカットの多用で特徴づけられ、実にゆっくりと移動して、アイスランドの風景をとらえる美しいカメラ撮影が印象的でもあり、目的地への旅ではゆったりとした時の流れが心に残り、集落に着いてからはその牧歌的な「春」を思わせる映像に惹かれる。
 そしてここまでは、登場人物のぶつかり合い、諍いなどということは表面化せず、むしろルーカスとアンナとのこころのふれ合いこそが前面に感じられる。

 それでここまでの展開で2時間近くが経過していて、「このままどのような展開になるのだろうか?」とも思いながら観ていたのだけれども、実はこのあと、ストーリーは激烈で驚愕の展開へとなだれ込んで行く。
 そのことを事細かに書きたいという誘惑はあるのだけれども、この作品に関しては「マナー上」、そのことは書くべきではないと考える。
 ただ、その終盤で一気にあらわになるのは、アイスランドに対して宗主国である、デンマーク人(この場合はルーカスのことしかない)がアイスランド人に抱く感情と、逆にアイスランド人からデンマーク人への意識、ということだろう。さらに、デンマークから移住してきてアイスランドに同化しようとしていたカールの立ち位置というものが、ラストには際立つことになる。
 そんな中で、「ルーカスがアイスランドで撮影しようとしたものは何だったのか?」ということも浮かび上がってくるだろう。それはまさに、写真機に仕掛けられるフィルターを通して撮影される写真のように、「ルーカスの望んだ(フィルターを通して見た)アイスランド」だったのだ。
 もちろん、ルーカスは船の上でアイスランド語の学習を早くに放棄したように、さいしょからそのような「フィルター」を用意していたのかもしれないが、アイスランドに上陸してからの旅のあいだにさらに醸成されもしただろう。通訳亡きあと、ルーカスには案内人のラグナルを理解することは出来なくなっていた。
 この「意思疎通出来ない」ということは当然、ラグナルがルーカスに抱く思いともなったわけだ。
 そして、このドラマ全体を陰でけん引していた「犬」の存在が、また忘れられない。もしかしたらあの犬は、ルーカスが捨てようとした「信仰」の、その「神の存在」をあらわしていたのかもしれない、などとも思ってしまう。

 ラストの、季節の流れを超えて風化して行く馬の骨、それを眺めてのイダの感慨もまた、忘れられないものであった。
 どうやら、わたしには忘れられない映画作品の一本になったようではある。