ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『バートン・フィンク』(1991) イーサン・コーエン:脚本・製作 ジョエル・コーエン:脚本・監督

 コーエン兄弟が『ミラーズ・クロッシング』(1990)に続いて撮った第4作。わたしは『ミラーズ・クロッシング』は大好きで、DVDも持っていて時々観返すのだが、この『バートン・フィンク』はコーエン兄弟がその『ミラーズ・クロッシング』の脚本執筆中に体験した「行き詰まり感」から発展させた作品だという。
 確かにこの『バートン・フィンク』、映画の脚本を引き受けた主人公が、なかなか進展せずに苦労するという話でもあるけれども、いろいろと怪しい作品ではある。

 バートン・フィンクを演じるジョン・タトゥーロは『ミラーズ・クロッシング』にも人間のいやらしい二面性をあらわす役で出演していたが、ここでもそれに近い、二面性のある人物だっただろうか。
 共演のジョン・グッドマンはわたしの好きな役者さんだが、コーエン兄弟の作品にもよく出演していて、どうもわけもわからない人間を、わけのわからない演じ方をされるが、この『バートン・フィンク』では「隠れた主役」とでも言える役どころではないかと思う。
 同じく共演のジュディ・デイヴィスもまた「クセの強い」女優さんだけれども、この作品ではその「クセの強さ」を発揮される前に殺されてしまったか。

 1941年、太平洋戦争の始まる年でもあるけれども、ブロードウェイで演劇作品を評価された劇作家のバートン・フィンクジョン・タトゥーロ)がハリウッドの映画会社にスカウトされ、ハリウッドの「ホテル・アール」というところに長期宿泊して、ホテルで脚本を書こうとするのである。
 ホテルの隣室から騒音が聴こえるのでフロントに電話すると、その隣室のチャーリー・メドウズ(ジョン・グッドマン)という男が「苦情を訴えたのはお前か?」とバートンの部屋にやって来る。しかしバートンは「保険屋」だというチャーリーと意気投合するのだった。
 脚本が書き進まないまま、バートンはあるとき有名な作家/脚本家のW・P・メイヒューと出会い、アドヴァイスをもらおうと近づくのだが、W・P・メイヒューは去って行き、彼の秘書のオードリー(ジュディ・デイヴィス)と親しくなる。
 ホテルのバートンの部屋にやって来たオードリーと話をするうち、実は彼女はW・P・メイヒューの「ゴーストライター」でもあったらしいことがわかる。

 ひと晩をオードリーとすごしたバートンが翌朝目を覚ますと、バートンの横でオードリーは血まみれで死んでいたのだった。
 動転したバートンは隣室のチャーリーを呼ぶが、チャーリーは驚きつつも、オードリーの死体の始末を引き受けるのだった。チャーリーは荷造りして「しばらく仕事で出かける」と言い、死体のことは忘れて脚本に集中するようにバートンを励まし、「預かっていてくれ」と30センチ立方ぐらいの小包をバートンに預ける。
 バートンはホテルの机の引き出しにあった「ギデオン聖書」を開き、インスピレーションを得たかのように猛烈に脚本を書きはじめる。
 翌日、2人の刑事がバートンの部屋を訪れ、バートンに尋問する。刑事らの話ではチャーリーは「カール・ムント」という連続殺人犯で、いつも被害者の首を切り落とすのだと言う。
 その夜ついにバートンは脚本を書き上げ、浮かれて兵隊らのたむろするダンス・パーティ会場に出かけて踊り、兵隊らとケンカもする。
 次の日にまた2人の刑事がやって来て、W・P・メイヒューも死体で見つかったと告げ、バートンを部屋に監禁する。そこにチャーリー(カール・ムント)がショットガンを手にあらわれ、ホテルの廊下を火に包みながらも刑事らを射殺し、バートンを逃がすのだった。
 バートンは脚本を持って契約する映画会社社長に会うが、自信たっぷりだった脚本は否定され、以後何を書いても一切映画化はしないと告げるのだった。
 途方に暮れたバートンは、原稿とチャーリーに預かった小包を持って砂浜へとやって来るが、その砂浜の光景は彼が滞在していたホテルの部屋に飾られていた、写真の光景と同じなのだった。

 ‥‥ひとつの解釈として、この映画はまずはキューブリック監督の『シャイニング』と相似形、かもしれない。まああそこまで大きなホテルではないにせよ、この『バートン・フィンク』のホテルの、どこまでも続いているような廊下はやはり、どこか『シャイニング』を思わせられるところがあるし、チャーリー・メドウズ(カール・ムント)という存在は、この「ホテル・アール」のことを「オレの住まい」と言っていたように、『シャイニング』でいえば、ジャック・ニコルソンがホテルのバーで出会ってジャック・ニコルソンに忠告をするバーテンダーのような存在ではないのか。
 そして、バートン・フィンクという存在はつまり、最後には「ホテル・アール」に取り込まれてしまう。だからバートンは客室に飾られていた絵(写真)の中の世界に入ってしまうのだ。

 まあこういうのは「一つの解釈」で、そんな映画を観ていちいち解釈しなくってもいいのだが、この『バートン・フィンク』という映画、「オードリーをじっさいに殺したのはバートンなのか、チャーリーなのか?」などと考え始めると、どうもそういう何らかの解釈をせざるを得ないことになってしまう。

 もっともっと、この1941年のアメリカの映画界の状況だとか、バートン・フィンクの語る「市民的」脚本などについても考えてみたいし、最後の海辺のシーンで空を飛んでいたカモメが海面に「墜落」するというのも、「ありゃあ何だ?」みたいなことになる。

 わたしはこの映画のあとに「ヒロエニムス・ボス」の『快楽の園』の絵についてのドキュメンタリーを観たもので、この映画と「快楽」についても考えてしまったのだけれども、今は書いているヒマもないので、そのことはわたしの頭の中で。