例えば、この本に書かれていることは、イギリスを例に考えるとけっこうわかるかもしれない。イギリスは「クマのプーさん」や「パディントン」の誕生した国であり、クマを愛でるお国柄であるように思えるが、実は野生のクマははるか昔に、人間の「狩り」によって絶滅してしまった(クマだけでなく、同じようにオオカミも絶滅したが)。
一方で童話の主人公であり、子供のいる家庭にはクマのぬいぐるみが多く見られる(今ではアニメの人気あるキャラクターでもある)というのに、現実の野生の「クマ」は恐れられ忌み嫌われ、撃ち殺されているのだ。そしてそんな童話の世界のクマにじっさいのクマを近づけるために、昔からクマをてなづける試みがあり、クマの可愛い面を強調するサーカスや見世物で観客を集めたり、果てはペットとして飼おうという人もあらわれる。
なぜ「クマ」なのか?
実はヨーロッパを中心とする世界で、ヨーロッパに暮らす人々がもっとも身近に感じた「けもの」、人間に危害をくわえる存在というのは、基本的に「クマ」だったのである。
今でもヨーロッパでは、スペインとイタリアの国境付近に棲むわずかなヒグマ(絶滅の危機にあるらしい)、そしてスカンジナビア半島、さらに東ヨーロッパには多数のヒグマが棲息しているという。
クマはよく後ろ足で立ち上がる姿を見せることがあり、その姿は人間に近接したものとも感じられ、考えられてもいたようだ。「人間に近接した」どころか、アラスカの住民や北海道のアイヌの人々にとって、クマは「神」に近いものであった。
アイヌの「イヨマンテ」の儀式は、表面的にみると残酷なものだ。アイヌの人々は冬の終わりに冬眠しているヒグマを狩るのだが、そのとき親グマは殺しても子グマは集落へ連れ帰り、2年ほどその子グマを育てる。しかし「イヨマンテ」の儀式において、綿密な作法に従って子グマは集落中の家を回り、最後に殺される。その子グマの肉は皆に食べられ、その魂は「カムイ」として神々の世界に送り返されるのである。
このような、クマを「神の化身」として儀式を行うというのは、アラスカのイヌイット、そしてアメリカの先住民の間にも共通して見られたようだ。
この本は、基本的には「自然保護」「動物保護」の観点から、そんな人類がどのようにクマと接し、共生しようとしたか、または排除しようとして来たか、過去~現在のさまざまな例を提示しながら語っている。
今は日本でも、北海道でのヒグマによる被害がニュースになることが多くなり、まさに「どのようにクマとの共生の道を探るのか」ということが大きな論議を呼んでもいる。
一方で「自衛隊による大掛かりな狩り」を訴える人もいれば、「ヒグマの棲息地に後からやって来た人間らがヒグマを排除するべきでない」という意見もある。まさにこの本の中に書かれていたことが、現実にそのまま問題にされているようでもある。
日本ではかつて、ヒグマは「害獣」として駆除され続けてきたのだが、いつしか「自然の豊かさ」をあらわすバロメーターとして、貴重な野生動物とされ、「観光資源」のひとつとされた時代もあった。このとき、人間とヒグマとの生活領域とが一気に近接してしまった。
この問題は先日観たヴェルナー・ヘルツォーク監督のドキュメンタリー、『グリズリーマン』でも描かれていたが、ヒグマが人間の姿を見なれてしまうこと、人間に「畏れ」を感じなくなってしまうこと、ヒグマが人間のことを「非力」「無力」な存在と思い込んでしまうことが問題ではあろう。
けっきょく、昔から変わらずに人間の都合に振り回される野生動物の「悲劇」なのだ(ちょっと、不本意な簡単な感想になってしまったが)。