ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『愛しすぎた男』(1960) パトリシア・ハイスミス:著 岡田葉子:訳

 この文庫本の裏表紙には「いま話題の<ストーカー>(追跡者)の世界を内側から描いた名手ハイスミスのノンストップ・サスペンス!」とあり、「あとがき」にも「日本でも注目されつつある<ストーカー>を主人公とした物語として読むことができる」とも書かれている。
 しかしわたしは、この作品を「<ストーカー>を主人公とした物語」として読むと、ちょっと読みまちがいしてしまうのではないかという気がする。

 「ストーカー」という言葉が社会問題として論ぜられるようになったのはそんなに昔のことではなく、アメリカでは1980年代以降のこと、日本では1990年以降に語れれることが増加したが、1999年の「桶川ストーカー殺人事件」の発生を受け、2000年には「ストーカー規制法」が成立した。
 ハイスミスがこの『愛しすぎた男』を発表したのは1960年のことであり、つまりまだ「ストーカー犯罪」というものは一般に認知されてはいなかっただろうし、この小説には主人公の絡む2件の事件が起き、それぞれ死亡者が出ているのだけれども、その死亡者はストーキングされた当人ではないし、小説の主人公である男の意識でも、その事件において「相手を傷つけようという意思」はなかったこととされている(あくまでも彼の「意識」でだから、「無意識」下に殺意があったのかもしれない)。

 そういうところで、この作品が「ストーカー犯罪」を描いた作品だとはいいがたくなると思うが、それでもこの主人公、今言われる<ストーカー>の概念に一致する特徴をいくつか持っていることは確かである。それは主に「妄想型人格障害」といえるもので、「被害者には自分が最もふさわしいパートナーである」との妄信であり、「自分が嫌われていないと妄信し、いつまでも被害者を追いかけ続ける」という行為になるだろう。

 また、このことはストーカーだけの特徴ではないが、この作品の主人公は「誤った自分の恋愛の世界観」に浸っているわけで、主人公はそんな「自分の世界観」の世界を現実に構築してしまうわけだ。ここにこそ、この作品のポイント、面白さがあるのではないかと思える。

 小説はすべて主人公のデイヴィッドの視点から書かれているので、現実にはどうだったのかということは実のところはっきりとはしない。そういう意味ではこの作品、「信頼できない語り手による作品」のひとつともいえるのではないかと思う。
 デイヴィッドはけっこう優秀な科学者らしいのだが、交際していたらしいアナベルは、デイヴィッドが将来の結婚に備えて転職しようとしたあいだに(結婚の約束をしていたわけではないようだ)、ジェラルドという男と結婚してしまい、子供も誕生するのだ。
 デイヴィッドは、「ジェラルドはアナベルにふさわしい男ではなく、アナベルは自分のもとに来るべきだ」という思いを強め、住んでいるニューヨークのアパートとは別に「アナベルと共に暮らす新居」のつもりで郊外に一軒家を購入し、週末にはその家に行って、そこであたかもアナベルと生活をしているかのごとくにふるまい、会社の同僚やアパートの人らには毎週末は療養している母親のところですごしていると話す。しかしじっさいには母親はとっくに亡くなっているのだ
 その家を買うときにデイヴィッドは「ウィリアム・ノイマイスター」という偽名を使い、ここに「デイヴィッド・ケルシー」と「ウィリアム・ノイマイスター」との二重生活が始まる。
 デイヴィッドはアナベルに宛てて「自分のもとに来てくれ」との手紙を2~3回書き、「会いたい」とやはり2~3回電話もする(その頻度は「ストーカー」と言われるほどのものではないと思う)。
 一度はアナベルの家まで行きジェラルドとも出会い、なおのこと「ジェラルドはアナベルにふさわしくない」と思うのだ。そのときジェラルドはデイヴィッドに「もうアナベルに連絡を取らないでくれ」と強く言うが、デイヴィッドはアナベルに「今すぐ僕と一緒に来てくれ」と迫る。アナベルも拒絶して別れるのだが、そのあとにまた手紙を書く。
 そのあとの週末、いつものようにデイヴィッドが一軒家の方に居るとき、不意にジェラルドが訪ねて来て家の前でこぜり合いになり、ジェラルドは転倒して頭を打ち死んでしまうのだ。
 デイヴィッドはウィリアム・ノイマイスターの方の名前を使って警察に届け出、特に怪しまれることもなく帰宅する。
 ジェラルドがデイヴィッドの家を知ったのは、デイヴィッドには彼に思いを寄せているらしいエフィという女友だちがあったのだが、そのエフィがデイヴィッドが週末に母親に会いに行くということを疑い、彼のあとをつけてデイヴィッドがその家に入っていくのを見ていたからで、ジェラルドがエフィに「デイヴィッドはどこにいる?」と聞いたとき、そのノイマイスターの家を教えてしまったのだった。
 ジェラルドが亡くなったときのことを知っているのはウィリアム・ノイマイスターであって、デイヴィッドではない。このことはさらにデイヴィッドを「二重生活」に深入りさせる。
 デイヴィッドは「事件」のあった一軒家をすぐに売却してしまい、アナベルが実はデイヴィッドだと知らないノイマイスターに会って話を聞こうとしても、ノイマイスターの行方は分からない。警察も不審には思うことになる。
 そんな事件があってもなおのこと(というか事件にかかわったのはノイマイスターの方でデイヴィッドは無関係だし、「障害物」であったアナベルの夫のジェラルドはいなくなったわけだし)、アナベルへの思慕をつのらせて、また手紙を書いて電話をする。
 一方、デイヴィッドの会社の友人のウェズや、女友だちのエフィらは事件のことを知り、少なくともデイヴィッドはノイマイスターという男を知っているはずだし、「母に会う」と言っていた彼の週末の行動にも不信感を持つことになるのだ。
 しかもデイヴィッドはアナベルが新しい男と付き合い始めていることも知るのだった。さてさて‥‥。

 週末の一軒家で、デイヴィッドはそこにあたかもアナベルがいっしょに暮しているかのごとくにふるまい、そこにいないアナベルに話しかけもする。家の中の家具類は「これはアナベルの気に入るだろう」と思うだろという基準で買いそろえ、アナベルの趣味に合わせてクラシック音楽を聴く(どうも彼はアナベルに合わせてクラシックを聴いているだけのように思える)。
 事件が起きてからは、自分が「ウィリアム・ノイマイスター」という存在をでっちあげていたおかげで窮地に陥らないですんだと思い、ノイマイスターはラッキーなやつだと思うことになる。一方のデイヴィッドの方はアナベルには会ってもらえないし、「不運だ」と思うのだ。

 そのうちだんだんにそんな虚偽の生活が追い詰められてしまい、あるときは「ノイマイスターだったらどうするだろう?」と考えもし、「あるときはデイヴィッド、あるときはノイマイスター」というとっさの切り替えがますます必要になって行く。そんな切り替えがうまくいったときには「今は幸福だ」と思いもする。
 どうも読んでいると彼の酒の量がだんだんに増加するようでもあるのだけれども、あるときにウェズとエフィといっしょにアパートで飲んでいたとき、酩酊もあってつい「オレはノイマイスターだ」と言ってしまう。混乱したデイヴィッドはエフィを突き飛ばして部屋を飛び出してしまう。

 やはりこの作品の面白さは、ひとつには主人公のデイヴィッドの視点で押し切っていることだろう。読んでいれば「それはおかしいだろう」とか「そのデイヴィッドの思考は異常だ」とか思うことになるが、ハイスミスはこの作品中では決してデイヴィッドの行動、思考を批判したりはしないわけだ(それは読者の役割だ)。
 特にラスト30ページほどの、夜のニューヨークの街を彷徨うデイヴィッドの描写(彼はいささか酩酊もしているようだし、なおかつ彼は常にアナベルが自分のそばにいっしょについて来ていると思い込んでいる)にこそ、ハイスミスの、ある種の「狂気」を描く筆致を堪能することになる。

 ちょっとばかり、この終幕部分はわたしにナボコフの『絶望』を思い出させられたが、ナボコフの『絶望』もまたアイデンティティーの分裂、消失を描いていたのではないかと思い出し、この『愛しすぎた男』と共通しているのではないのか、などとは思うのだった。
 なおこの作品、テレビ「ヒッチコック劇場」で『アナベル』のタイトルで放映されたという。デイヴィッドを演じたのはディーン・ストックウェルだったらしい。この作品もヒッチコックが演出したのだろうか?