ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『瞳をとじて』(2023) ヴィクトル・エリセ:監督

   

 83歳のヴィクトル・エリセ監督、『マルメロの陽光』以来31年ぶりになる、彼の長編第4作。観る前の予備知識で、「記憶喪失に陥った男(俳優)」の話ということを知っていたので、記憶障害を抱えたわたしとしては、そんな心の準備をしてこの作品を観たのだったが。

 1970年代に映画監督のミゲルが「別れのまなざし」という作品を撮影していたとき、ミゲルの昔からの友人であった主演俳優のフリオが突然に失踪してしまう。22年の月日が経ち、ミゲルは以降映画を撮ることもなく文筆家になっているのだが、「未解決事件」というテレビ番組でフリオの失踪が取り上げられることになり、ミゲルも出演もして協力して行くのだが、その中で改めてかつての映画編集者のマックス、フリオの娘のアナらと会って話をし、自分の映画のこと、フリオのことを振り返ることになる。そんなとき、「フリオにそっくりの男が海辺の老人介護施設にいる」との情報を得るのだった。ミゲルはその施設に行き、記憶を失くして自分の名前もわからない、それでも施設のために下働きをしている、フリオにまちがいないだろうというその男と会って話をするのだった。

 「記憶」のことはこの作品のテーマではあるけれども、「記憶を失った」フリオの存在の一方で、過去の「映画的記憶」というのはこの作品では重要なファクターになってもいたようだった。
 この作品の冒頭は、そのミゲルがフリオと撮っていた未完成の「別れのまなざし」の、編集済みのフィルムが流されるわけで、この映像が作品ラストで重たい意味を持つことになる。
 実はこの「別れのまなざし」、ある富豪が上海に渡って行方不明の自分の娘を探し出してほしいと、フリオ演じる男に娘の写真一枚を渡して依頼する、というところまでの映像で、この「行方不明の娘、ジュディスを探す」ということが、この作品全体にわたるメタファーになっている。「行方不明の娘」はその後行方不明になったフリオでもあるし、「失われた記憶」のこととも解釈できるのではないか。

 わたしは単純に「ああ、記憶が戻った」などという作品にはなりっこないとは思っていて、「では、ヴィクトル・エリセは、記憶をなくしたという状態を、どのようにこの作品の中にあらわすのだろうか」というのを知りたくて観ていたが、ひとつわたしなりの受け止め方として、「そのとき自分の抱く思い、感じる感情を大事に生きるべきではないのか」というメッセージがあったように思ってしまった。
 しかし、このことはわたしが一昨日の午後に外を歩いていて、陽の光を見て思ったことのようではあり、つまりそれまでの自分の考えを、この作品によって再確認したというだけのことかもしれない。

 印象的な美しいシーンの多く見られた映画だったし、『ミツバチのささやき』のアナ・トレントが同じ「アナ」という役名で登場し、まずフリオの住まう部屋に入って行くとき、「これは『ミツバチのささやき』で、アナが脱走兵のいる納屋に入って行くときと同じではないか、とは思ったし、そのあと彼女はまさに「わたしはアナ」という、『ミツバチのささやき』でもっとも印象的なセリフを語るのだった(わたしはこのシーンで感極まってしまったが)。
 しかし、これらのことはわたしが今なお『ミツバチのささやき』を記憶しているからこその「思い」で、「記憶を失った」というこの作品のテーマと合致するものではないのではないか? そういう意味ではこの作品には、『エル・スール』や『マルメロの陽光』への記憶もまた、埋め込まれていたのではないだろうか? それはわたしの記憶が失せているから思い出せない、ということではないのか。

 いろいろと作品の細部について語りたくなってしまう作品だけれども、語ろうとすれば語るほど、「記憶」のテーマからは外れてしまうようにも思えてしまう。それに今はもう、作品の細部の記憶が薄れかけてもいるようだ。やはり時間を設けて、もう一度観てみたい作品ではある。