ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『こちらあみ子』今村夏子:原作 森井勇佑:脚本・監督

   

 主人公の「あみ子」を演じたのは、オーディションで選ばれた大沢一菜(おおさわ かな)という、東京に住む(撮影時で10歳ぐらいの)女の子だったけど、パンフレットなど読むと、この一菜ちゃん、まさに「あみ子」を彷彿とさせられる、天真爛漫な型破りの子だったらしい。
 パンフレットには奈良美智さんも短文を寄せておられるが、この一菜ちゃん、たしかにまさに、奈良美智さんの作品に登場する、ちょっと意地悪な眼をした女の子を彷彿とさせられるところがある。

 原作では、この「あみ子」という女の子、ただ肯定すればいいのか、それとも「それはヤバい」と判断すべきか、ビミョーなところもあるのだけれども、この映画では「あみ子」を(基本としては)肯定する(もちろん、「家庭崩壊」の原因となった彼女の言動を肯定しているわけではないが)。
 そこでこの映画は全面的に、「あみ子」の見ていたであろう「世界」を現出させようとする。まずは、この映画が素晴らしいというのは、そこから始まっていることだろう。

 冒頭、ロングで撮られた学校の映像から、廊下の「あみ子」をとらえ、そのままロング気味の固定された映像から、学校からウチへ帰るあみ子を追う。下りの坂道でカメラは手持ちになり、あみ子のすぐうしろからあみ子を追う。そのあとはまた固定カメラから、ワンシーンワンカット気味に、あみ子の行動を追って行く。
 わたしはこのところ、シャンタル・アケルマンの作品を観ていたもので、ちょっとそんな、シャンタル・アケルマンのことを思い浮かべたりもしてしまった。

 単にストーリーを追うのではない、挿入される「イメージ映像」がいい。基本的に「虫」とかの映像なのだけれども、「ダンゴ虫」「テントウムシ」、そして「カエル」。夜の部屋の中には「蛾」も飛び込んで来るし、さいごの方では「カエルをくわえたヘビ」とかも登場し、そんなヘビのしっぽを持って振り回すあみ子もいる(こういうところはどこか、『となりのトトロ』でのメイのことが思い起こされたりもしたが)。

 イメージ映像というのでは、入院していたお母さんのさゆり(尾野真千子)の退院を道路に立って待っていたあみ子の、汗に濡れた頬をさゆりの手がぬぐう、とてつもなく美しいシーンが記憶に残る。もう、このシーンだけでも、この作品は「すばらしい作品」なのである。

     

 そして、ちょっと唐突に、あの古典映画『フランケンシュタイン』の映画の一シーンが挿入される。ここで当然想起されるのは、まさにヴィクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』のことではあり、この映画のどこかで、「あみ子」は『ミツバチのささやき』の「アンナ」と同じ「生」を生きるのだ。

 こう書いていると、この映画は今村夏子の原作から離れてしまっているのではないかと思われるかも知れないけれども、そうではなく、この映画は原作のテイストを損ねることなく、「映画的冒険」を成し遂げていたのだと思う。
 撮影と照明を兼任された岩永洋氏は、撮影前に森井勇佑監督から「参考に」と、相米慎二監督の『お引越し』を勧められていたというが、そういう風にみると、この『こちらあみ子』のラストは、まさにその『お引越し』の「ヴァージョン」ではないのか、との思いにもとらわれてしまう。原作から離れてオリジナルな展開をみせてくれるラストで、あみ子は早朝の海辺に足を入れ、「だいじょ~ぶじゃ!」と叫ぶけれども、それはわたしの中では『お引越し』のラストで、田畑智子が湖の中に足を入れて「おめでとうございます!」と叫ぶこととリンクしてしまう(だから「海」に来たのか、というところではある)。
 そのラストの、ぶった切るような「暗転」も、あまりにカッコよかった。

 いろいろ書きたいことはあるのだけれども、さいごにひとつ。映画の中で、あみ子の担任教師が家庭訪問する場面があったけれども、パンフレットを読むと、森井勇佑監督はこの担任教師役の役者さんのことを、「ロベール・ブレッソンの映画の登場人物のように品があります」と紹介しているのだけれども、その担任教師が家庭訪問から辞するとき、あみ子の家の格子門を手を通して閉じるショットがあり、なぜかそのショットが記憶に残っていたのだけれども、その監督の一文を読んで、「そうか、あの<門を閉める>ショットは、ロベール・ブレッソンだったのだ!」と合点が行ったのだった。

 とにかくは今、この森井勇佑監督の<次回作>を期待したいです!