ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2022-10-15(Sat)

 昨日、となり駅の映画館でフランソワ・トリュフォー監督の『ピアニストを撃て』を観て、そこからまた、9月に観たシャンタル・アケルマンの作品に関してのFacebook上の書き込みを思い出してしまい、実は昨夜は何とも寝苦しい夜になってしまった。もうひとつ、昨夜仕込んだ「パエリア」(スペイン風炊き込みご飯)が激マズだったこともまた、その「寝苦しさ」の原因ではあったかと思うが、それはまた別の問題だ。

 それで今朝起きてもういちど考え、今はもうFacebookからは距離を置いてログアウトしていて「もうこのままにしてしまおう」とも思っていたのだけれども、昨日の体験がわたしには重たくって、「自分がこういう体験をした」ということをFacebook上のわたしの「友だち」に知らせ、出来ればアドヴァイスをしていただければとは思うことになった。それで以下の一文をFacebookに投稿した次第である。ちょっと「長文」で、そもそもシャンタル・アケルマンの映画を観ていらっしゃらない方々には伝わりにくいところもあるとは思いますが、ちょびっと「わたしのわがまま」を容認して下さい。

 以下の通りです。

 わたしは今Facebookはログアウトして距離を置いていて、むしろ辞めてしまいたいと思っていますが、それはFacebook上での、ある方の書き込みがきっかけではありました。
 そのことを忘れるためにも、また同じような発言を読まないためにも、「Facebookは閲覧しない」のがいちばんではないかと思っていた次第ですが、実は昨日、自分がもっと深く傷ついているのではないかと思うことになり、「どうしたらいいか」と考え、Facebookの上で皆様方の考えを聞くのがいいのではないかと思うことになりました。

 まずはその「きっかけ」がどういうものだったのかから説明し、そして「他者を傷つけないように」留意しながら書くのはなかなか大変そうで、長い文章になりそうですが、わたしのFacebookの「友だち」には深く「表現」に関わっていらっしゃる方がおおぜいいらっしゃるので(むしろ、わたしのFacebookの「友だち」は全員がそういう方とも言えると思います)。皆様方の「アドヴァイス」を期待する次第です。そうすれば、わたしにとって「Facebookも有益だ」と思えることにもなるでしょう。

 それはわたしも<楽しんで観た>つもりの、シャンタル・アケルマンの映画に関しての次の<書き込み>から始まったことです。

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シャンタル アケルマン
意地悪で とてもいい!
男性客よく最後まで見てたなー 敬意
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 この発言で、書かれた方は「男性客よく最後まで見てたなー 敬意」と書かれてますが、わたしにはこの書き方はアイロニーとして、「このシャンタル・アケルマンの作品を最後まで見ていた<男性客>なんて、アホじゃないの」という意味と捉えることしか出来ませんでした。この書き込みがどれだけわたしにとって<ショック>だったか、今は簡単に書くことも出来ません。
 <表現>の歴史の中で、そういった<ジェンダー>問題として、今まではたいていは女性が貶められて来たことは、わたしも多少は学習して来ていますし、この書き込みがその「逆転」だということも理解しますが、それがこ~んなにもわたしに<ショック>を与えるものだとは思いませんでした。

 もちろんそのことは、「シャンタル・アケルマンの映画を<ジェンダー>の問題として深く観ることのなかった」わたしの落ち度ではあり、「ば~か」と言われても仕方がないところです。
 それでこのことに関連して、わたしは去年水戸芸術館ピピロッティ・リストの展覧会も観ているわけですが、もちろんピピロッティ・リストもまた<ジェンダー問題><フェミニズム>からも観られるべき作品群でもあり、例えば彼女の代表作の映像作品、彼女がニコニコ微笑みながら金属製の造花を持って道路を歩きながら、道路に駐車している車のフロントガラスをその造花で叩き割って行く作品など、わたしは「おもしろいなあ」と見ていたわけですが、そう考えれば<男>であるわたしは、<観客>として、ピピロッティ・リストの作品を観ても理解出来っこないのです。ここでも、わたしの耳元で「男性客よく最後まで見てたなー」という声が響きます。

 わたしはそういうことを忘れようと、それでもうFacebookから距離を置こうと思っていたわけですが、実は昨日映画館である古い映画(具体的に書くとトリュフォーの『ピアニストを撃て』ですが)を観たのですが、実はその映画に登場する女性たちの姿をみたとき(ふたりの女性が主人公のために死ぬのですが)、「ダメだ!わたしはこういうのを観てはいけないのだ!」と強く思ってしまったのです。やはりそのとき、わたしの耳元で「男性客よく最後まで見てたなー」という声が響いていました(この映画の監督は<男性>であるにも関わらず、です)。

 このことはわたしにはとっても「深刻」で、まあ自宅で観たもっと娯楽的要素の強い映画ではそういうことも考えませんでしたし、読んでいる本でも耳元でそういう声は聞こえません。
 昨夜一晩このことを考え、わたし的にはこれはちょっとした「神経症」でもあるように思えるのですが、克服法がわかりません。
 何よりも深刻なのは、先日存じ上げている女性の舞踏家の方の新作公演の案内をいただいていて、「これはぜひ観に行きたいな」と思っていたのですが、今のわたしの気もちでは「とても観に行けない」ということなのです。これはわたしにはとても悲しいことで、ほんとうのほんとうは「ぜひ観たい公演」なのですが、いまのわたしならばぜったいに、見ていて耳元で「男性客よく最後まで見てたなー」という声がこだますることでしょう。昨夜の苦しみを考えると、とても公演会場に足を運ぶことは出来ない気分です。
 改めて書いておけば、それはもちろん「舞台公演」や「映画」にとどまらず、「女性作家による美術作品の展示」を観ることをもさまたげるもののように思われます。今のところ「小説」を読んでそういう思いをすることもありませんが、例えば金井美恵子の作品とかを読めばまた「同じ声」が聞こえて来るかもしれません。

 こんなことをいつまでもクダクダ書いていてもしょうがないのですが、わたしは皆さん方に、「どうすればこの<神経症>を克服できるか?」ということをお聞きしたいのがひとつ。そしてもうひとつ(便宜上<男性作家><女性作家>と分類してしまいますが)、女性作家(どんなジャンルの方であれ)は、ジェンダー問題として「ふん、どうせ理解出来もしないだろう男性観客がまた来てるよ!」というプロブレムを、どのように考えていらっしゃるのでしょうか? そのことをわたしは皆さんにお聞きしたい。

 すいません、「人生相談」みたいなことではありますが、わたしにとってはこれから映画を観たり舞台を観たり美術を観たり本を読んだりする上で、「すべてをあきらめなければならないか?」という大きな問題なのではあります。

 ‥‥まあやはり、Facebook上でもやはり、シャンタル・アケルマンの作品をご覧になっていない方々とは、問題の共有のしようもなかったようで、「この方は何か書いてくれるだろう」と思っていた方のコメント以外はまあ「無反応」というところだったのだけれども、こうやって自分の抱えている「難題」を文章化して、ただ自分の中でしまい込んで置くのではなくして「人の目に触れさせる」ことをやったというのは、たんじゅんに自分の問題として「爽快感」もあり、自分勝手な話ではあるけれども「すっきりした」のだった。
 まあ逆に、こういうところからSNSを介した「精神の歪み」みたいなものが顕在化するのかもしれないけれども、昨日からのわたしの「精神状態」から言えば、「プラス」ではあったと思う。

 今日はその、昨夜の「パエリア」がまだまだいっぱい残っているので、昼食には我慢して食べたけれど、自分の感想では「近年、こ~んなに不味い食べ物を食べた記憶もない」というところだ。夕食に時間にもまだ一食分ぐらい残っていたのだけれども、自分としてはほぼ初めて、「まだ食べられる食べ物をゴミ箱に放り込んだ」のだった。ゴメンナサイ。

 昼間に東のスーパーへ買い物に出て、道すがら「サフラン」の花が咲いているのを写真に撮った。今日の一枚はそのサフランの写真で。