ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『けんかえれじい』(1966) 鈴木清純:監督

 この作品に原作があったのは知らなかったが、もとは児童文学作家の鈴木隆の自伝的長編小説によるのだという(この原作は今でも岩波の「現代文庫」で読めるようだ)。
 そしてこの鈴木清純による映画化の、その脚本は新藤兼人が手掛けたのだというが、鈴木清純は撮影中にどんどんストーリーを変更してしまうので、完成した作品をみた新藤兼人は「これは自分の作品ではない」と語ったらしい。

 実は日活は先に鈴木清純監督の『悪太郎』が成功したもので、この『けんかえれじい』も鈴木監督に撮らせたらしい。その『悪太郎』もつまりは今東光の自伝的小説の映画化だったわけで、わたしもその予告だけ観てみたのだけれども、たしかにその展開とか『けんかえれじい』に似ているのではないかと感じた。

 しかしこの映画、とにかくは元気あふれる映画だと思うのだけれども、それはどんな青年でもが抱く(悩む)「性欲」という問題(かまわずにダイレクトにいうと「自慰癖」)を、とにかくは「けんか」によって発散するのだ、というようなバックボーンから醸し出されたのではないかと思う。まさに「昇華」といえるだろうか。
 それで、主人公麒六(高橋英樹)の欲望の対象が道子(浅野順子)なわけだけれども、それがまさに「マドンナ」とでもいえる清純な女性。そんな彼女への麒六の欲望の発散ぶりもまたおかしいわけだが(ピアノ!)、そういうこともこの映画にどこか清い印象を残すことになっている。

 一方で主人公のかかわる「けんか」だけれども、旧制中学生のやる「けんか」としてはいささか過激で、大けがならぬ致命傷をも与えるではないかというような「武器」をあれこれと持ち出しての大乱戦が、何度も繰り広げられる。
 そういう「けんか」のシーンがまた鈴木清純の演出の冴え、というか、コミカルな味を残しつつカメラワーク、編集などに才能を感じさせられる。

 映画は前半が岡山が舞台、後半が会津と移動するのだけれども、その会津で麒六が通うカフェのシーンが映画の中で異質というか、別世界を思わせられる。ここで麒六は北一輝の姿を見るわけだし、そのカフェには謎の女性(松尾嘉代)もいて、やはりそこが「異界」という雰囲気である。
 この作品への北一輝の登場は、原作にも脚本にもなかった「鈴木清純の創作」だったというが、麒六を訪ねてきた道子が行進する兵士たちにはね飛ばされるインパクトあるシーンとあわせて、時代性を強く打ち出していたと思う。

 そもそもこの映画の終わり方では「当然続編があるだろう」というところで、原作ではその後の麒六は軍隊に入り、日中戦争で戦死することになるらしい。
 しかし鈴木清純監督がこの『けんかえれじい』の次に撮ったのがあの『殺しの烙印』で鈴木監督は日活を解雇され、以後日活で映画を撮ることはなかったのだ。
 それでも『続・けんかえれじい』の脚本は、鈴木清純らによって書き終えられていたということだが。