ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『卍』(1964)谷崎潤一郎:原作 増村保造:監督

 谷崎潤一郎が1931年に発表した『卍』の映画化で、この原作は海外も含めて以降5回も映画化されているようで、今年(2023年)には井土紀州監督も映画化しているみたいだ。それは観たいな。

 この最初の映画化作品は脚本が新藤兼人で、岸田今日子若尾文子船越英二、そして川津祐介が出演している。
 当時はまだほとんど理解されなかった「同性愛」ということが大きくフィーチャーされている作品で、おそらく興味本位に見られたところも大きい気がするが、単に「同性愛」だけにとどまらず、一人の女性を中心として不倫問題、心理的サドマゾなどの倒錯した関係の「四角関係」みたいなものであり、そこから「卍」のタイトルになっているようだ。

 物語は柿内園子(岸田今日子)が書斎のようなところで年配の男性に「ことの顛末」を語るかたちで進行し、これはつまりナボコフの『ロリータ』じゃないけれども、「語り手は真実を語っていないのでは?」という、「信頼できない語り手」によるストーリー、という面もありそうだけれども、いちおうそこまでに「深読み」する必要はないようだった。
 ただ、その語りの中に語り手の「愚かさ」が全開になっているというか、ときどき映される、話を聞いている年配の男性も「あきれた」というか、「苦虫を噛みつぶしたような」表情を浮かべてもいたのだった。

 弁護士柿内考太郎(船越英二)の妻である園子は美術学校に通い始め、やはりそこの生徒である徳光光子(若尾文子)との仲が噂されるようになり、そのことが互いの意識に火をつけ、深い関係に陥る。ここに実は光子の恋人だという綿貫(川津祐介)があらわれて、園子に「二人で光子への愛を分け合おう」と、「誓約書」を書かせるのである。
 綿貫と別れるために園子と光子とは睡眠薬を飲んで狂言自殺を図るのだが、その関係を知った園子の夫の考太郎もまた、以降光子と関係を持つようになっちゃうのだ。
 排除された綿貫は先に書いた「誓約書」を盾に関係を修復しようとするが、それらすべての関係を知っている柿内家の家政婦が情報を新聞社に売り、三人の関係は新聞沙汰の大スキャンダルになってしまう。三人はことの解決もならず、いっしょに心中することにするのだが、考太郎と光子は死ぬが園子は生き残ってしまう。園子はなお、「考太郎と光子の二人は、わたしを置いてあの世で二人で結ばれている」と、なお痛恨の思いに囚われるのだった。

 この映画で若尾文子の演じる光子を見ていると「小悪魔」的に園子を騙そうとしているようなのだが、「では騙して何を得ようとしているのか」というのがわからない。ラストの心中だって光子は本気じゃないだろうと思っていたら、考太郎と二人でほんとうに死んでしまうので驚いた。
 綿貫という男にしても、園子にそ~んな「誓約書」を書かせてしまったらいくらでも恐喝に使えると思うのだが、「誓約書を守れ!」と怒鳴り込みはするけれど、つまりは「本気」らしいのだ。
 夫の考太郎は、おそらく本気で光子を愛してしまったのだろう。彼の考え、行動だけにはわたしも納得できるところがある。
 このややっこしい関係のいちばんの原因は、園子があきれるほどにバカだったから、というしかないのではないか。綿貫に「誓約書」を書けと迫られ、そこでほんとうに書いてしまうなんて愚かすぎる。

 というのは、この映画を観ての感想であって、はたして原作を読んでもそのような感想になるかどうかはわからない。
 演出面でやはり、光子の「動機」をどこに置くのかということに、しっかりした方針はないように思えてしまう。何度も何度も園子を騙そうとするのは背後に恋愛関係でない動機があるような描かれ方だが、さいごには考太郎と死んでしまう。素直にみれば光子もまた実は考太郎に惚れ、三人での心中のとき園子だけ生き残るような細工をしていたのではないか、とも思える。

 というか、わたしは観ていても「アホらしい」という気もちばかりが先に立って観ていたので、実はあんまし真面目に観ていたわけではないのであった。