これはまさに「舞台劇」の映画化だな、と思わせられる古典的な絵作りだけれども、そんな中で劇中の「プール」のシーン、そして雨の夜の水墨画のような「公園」のシーン(モノクロ画面が美しい!)でスクリーンの空間を拡げ、みごとな映画作品に仕上がっていると思った。
わたしはキング・ヴィダーという監督さんの作品を観るのはこれが初めてで、おぼろげながらこの監督さんはオードリー・ヘップバーン主演で『戦争と平和』を撮った監督さんで、ハリウッド隆盛期にハリウッドの「大作主義」の一環を担われた監督さんか、などと思っていたのだが、実はこの方、サイレント映画時代から名を馳せた方で、その初期から映画会社に口をはさませずに「自分の好きな」映画を撮られたという、うらやましい方ではあったらしい。
とにかく、1929年という時期に、オールアフリカ系俳優によるミュージカル『ハレルヤ』を撮られ、コレがキング・ヴィダーのさいしょのトーキー作品でもあり、アカデミー監督賞の候補(2回目)にもなったという。
けっこう、「権威主義」とは無縁なところで作品をつくられつづけられた「名匠」という印象も抱いてしまうのだけれども、この1932年の『シナラ』という作品を観ても、真摯に映画作品に向かわれた監督の姿勢こそが、まずは心を打つような作品だったと思う。
この映画の主演、ジムというマジメな弁護士を演じるのはロナルド・コールマンという俳優で、「コールマンひげ」という言葉が日本でも有名だった、カッコいいひげがトレードマークの美男俳優。わたしゃ初めてこの人見たけれども、この作品の脚本もあるけれども、誠実そうな「イイ男」であります。
で、そのロナルド・コールマンの夫人クレメンシー役をつとめるのがケイ・フランシスという方で、この時期圧倒的に人気があったらしい。なるほど、いかにも1930年代風の容貌をしていらっしゃる。
もうひとり、ついついそのロナルド・コールマンが心を持って行かれてしまう女性、ドリスを演じているのがフィリス・バリーというイギリスの女優さんで、わたしの好みはケイ・フランシスよりもこのフィリス・バリーさんの方に持って行かれてしまうのだけれども、この女優さんはこのあとコメディ映画中心のキャリアになられ、ちょっと早死にされてしまったようだ。
作品として、わたしとしてはコレは「ひとりの妻帯者がついつい<踏み外して>しまった」というストーリー以上に、相手方の女性が自殺していることからも、映画の空気以上に<悲劇的>な作品だとは思った。
いちおう映画の救いになるのは、主役のロナルド・コールマンの「マジメさ」「誠実さ」ではないかと思ったのだけれども、そもそもがそんなロナルド・コールマンが演じるジムという男に、どこまでもドリスという若い女性を付き合わせようとするトリングというジムの友人がいたわけで、コイツがジムがいちどはドリスから受け取った連絡先のメモを破り捨てていたというのに、裏側から手を廻して、ジムが審査員をやる「水泳大会」にドリスを参加させ、ジムと再会させる。
このトリングという男、ジムがまったくの「愛妻家」ということを知りながら、ジムの夫人クレメンシーがヴェニスへ旅行へ行ってしまってジムがひとりになったとき、「こんなとき羽根を伸ばして妻のいない時間を謳歌すればいいではないか」と、必要以上にドリスをジムに接近させ、このすべてのトラブル、ドリスの自殺をも責任を負うべきではないのか。
ラストに弁護士を辞め、妻とも別れてひとり南アフリカへの航路に旅立とうとするジムのところへ、妻のクレメンシーを「ここで別れるのではなく彼を追いなさい」と行かせるのもまた、このトリングという男なのだが、「悪意のない非常識」というか、彼の行為こそがすべての悲劇の元凶であり、ジムが弁護士を辞めるのもこのトリングの「ちょっかい」のせいであろう。この男が、ラストまでへらへらとしていること、気分が悪かった。
たいていの登場人物が「端正」で脱線しないように、この作品でのキング・ヴィダーの演出もまた「端正」で、「古典的」という感想もある。でも例えば「水泳大会」のあとジムがドリスを抱き上げて歩むと、次のショットではドリスも着替えていて、同じジムに抱きかかえられたポーズで階段を上って行くショットにつながるのとかいうのは楽しくもあり、まあそれだけではなくも、さいしょに書いたように、そもそもが「舞台劇」的な原作に「室内」そして「屋外空間」という変化をつける(ラストシーンは船の出る港ではあった)、気もちのいい演出でもあった。