ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『忘れられた人々』(1950) ルイス・ブニュエル:監督

 ブニュエルという人は多彩な作品を撮っていた監督で、単純に『アンダルシアの犬』の人だからと、「シュルレアリスト」というレッテル貼りではすませられない「巨人」であろう。
 しかし、わたしが今まで観てきたブニュエルの映画には、どこかその根底に「シュルレアリスム」的なモノも観られるようには思う。
 『皆殺しの天使』などは、「なぜ人々は部屋から出られないのか」ということがまるでわからないまま、みんなで四苦八苦するのだけれども、撮り方としては普通のリアリスティックなドラマでありながら、根本のところで「いったいなぜ?」ということが不明のままである。
 『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』にせよ、「なぜ登場人物は皆、食べたい食べたいと思っている食事にいつまでもありつけないのか?」っつう映画だったけど、その『皆殺しの天使』と合わせて、どうもその根底にやはり、シュルレアリスム的精神を読み取りたくなってしまう。う~ん、わたしが今思い出すブニュエルの映画というのは今はこの二本ぐらいだから情けないのだが、そういう、表層に見える「リアリスム」の背後にある、「リアリスム」を超えたものをあらわしているというところから、「シュルレアリスム」と短絡しやすいのだろうかとは思う。でもそこで、「ブニュエル=(イコール)シュルレアリスト」と了解してしまうことは、観る側の「精神の怠惰」なのだろうと思う。何でも、レッテルを貼って片付けてしまえばいいモノではない。

 この『忘れられた人々』という作品、メキシコの貧民街にカメラを置き、不良少年らの中で更生の手も届かずに消えていく少年らを描いている。その「過酷な生」の描き方は当時のイタリアの「ネオリアリズモ」を想起させられもするし、この描かれた場所が「メキシコ」だということからも、のちの世代の「ラテンアメリカ文学」の誕生を読み取れるとも思うし、そうするとこの映画の「夢」のシーンなど、「マジックリアリズム」の萌芽とも言えるのではないか。

 登場人物らは皆貧しく、文盲で、まともな職業に就くことも出来ない。その子供らの集団に、厚生施設を脱走して来たハイボという青年が加わり、首領格になる。ここにペドロという少年がいて、性根は善良なのだが、いちいちハイボのせいで道を狂わせられる。いちどは更生施設に入れられたペドロのことを、所長は立ち直らせようとするのだが、ここでもハイボが出てきてまたペドロをもとの道に戻させる。ペドロはその前のハイボの殺人の件を人々に語り、ハイボはペドロを刺し殺すが、そのハイボもまた、警察に追われて射殺される。
 ここにペドロの家族、まだ若くて魅力的な母や、人々に呪詛を語りつづける盲目の音楽師、その音楽師にめんどうをみてもらっている、「小さい目」と呼ばれる父に捨てられたらしい少年などがいる。

 先に書いた「夢」は、そのペドロが自宅で夜に見る夢で、スローモーションのゆっくりした動きで、ペドロの母がペドロにやさしくするのだ。

 やるせなくも絶望的、救いのない映画ではあるが、いっそその「絶望」がふっ切れている「潔さ」のようなものが、観終わったあとに「映画を観た」という、ずっしりとした重量感を得るように思った。