ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『アリス』(1988) ヤン・シュヴァンクマイエル:製作・脚本・監督

 このシュヴァンクマイエルの初の長編映画『アリス』がつくられたのは1988年であり、いわゆる「ビロード革命」の前年になるのだが、にもかかわらずこの作品はチェコ、スイス、イギリス、そして西ドイツの共同製作になっている。このあたり、チェコの旧体制下でいったいどのような情況でこの作品の製作が進められていたのか、ちょっと知りたい気がするが、おそらくはこの作品が1988年に製作されたということの中に、1989年の「ビロード革命」がすでに進行していたということなのだろう。

 この作品より前のシュヴァンクマイエルの短篇を観ていれば、この『アリス』においても、シュヴァンクマイエルの「美意識」が全開だということがわかると思う。
 それでひとつ言えるのは、この映画で示されるのは、人の訪れることのない「博物館」の地下にある「標本室」のような世界ではないかということ。そこにはいろいろな動物の剥製標本があったり、古いむかしの人形や、さらには家庭にあるボタンやクリップ、三角定規やコンパスまでがある。
 そういったものは人々の生活から切り離され、まさに「博物館」に保存されているモノらであり、シュヴァンクマイエルの世界ではそれらの標本などが生命を持って動き出すのだ。
 そんな登場物質は、とりあえずはルイス・キャロルの原作『不思議の国のアリス』に従ったモノらであり、物語の展開も基本は原作に従っている。
 例えば冒頭のシーンでアリスは川べりで読書するお姉さんのそばで寝転がっているのだが、お姉さんの読んでいる本を見て「さし絵のない本なんて、何が面白いんだろう?」と思うわけで、しっかり原作になぞらえた行動を取っている。
 そして映画はアリスの部屋に視点を移すのだけれども、そのアリスの部屋にはなぜかガラスケースの中に「ウサギ」の標本があって、そのウサギが急に動き出して妙なところから引き出しを引き出し、赤い上着を着て赤い帽子をかぶり、ふところから懐中時計を出して見て、「大変だ!間に合わない!」と駆け出すのだ。その白ウサギは実のところ「剝製」なもので、懐中時計を出すときに剝製の詰め物のおがくずがこぼれ落ちるのだ。
 もちろんアリスはその白ウサギを追って行く。そのあと、小さな部屋に入ってアリスは小さくなったり大きくなったり、原作と同じ展開へと続くけれども、アリスは普通は子役の少女が演じているけれども、これが小さくなると「人形」になってしまう。

 残念ながら原作の有名な「チェシャ猫」こそ登場して来ないけれども、イモムシは「靴下」のイモムシとして出て来るし、赤ん坊を抱いた公爵夫人も、そのサカナとカエルの従僕も登場。サカナとカエルも「剥製」であるが、赤ん坊が「ブタ」になるというところだけは本当にブタの子が出て来る。
 観ていても、「そうか!原作をこうやって置き換えて表現しているわけか!」と関心もするし、その「置き換えられた世界」がまさに「不思議の国」ならぬ「地下(アンダーグラウンド)の国」という感じで、これはそういう「置き換え」という概念自体が「シュルレアリスム」の概念ではあることだし、まさに「シュルレアリスムの国のアリス」というところか。
 アリスを演じている少女がまた、ルイス・キャロルが写真に撮って残しているアリスのモデル、「アリス・リデル」に似ているようでもあるし、わたしたちはのちのテニエルの挿画のイメージで『不思議の国のアリス』を理解しているとことがあるけれども、じっさいにルイス・キャロルが思い描いていたイメージは、けっこうこのシュヴァンクマイエルの映画で描かれたようなダーク・ファンタジーの世界だったのかもしれない。というよりも、ルイス・キャロルもまた「シュルレアリスト」であったことを暴き出したのが、このヤン・シュヴァンクマイエルであった、とも言えるだろうか。

 映画のバックに音楽を使わず、アリス以外の登場する連中のセリフも、基本はアリスが「‥‥と、ウサギは言いました。」みたいに彼女の口のアップ映像で語られて、これはけっこう観客も「絵本を読んでいるような」感覚を味わうのではないかと思ったりする。

 余計なことは書かない方がいいだろうが、のちにつくられた、あのティム・バートンによる『アリス・イン・ワンダーランド』などとは、比べるのもバカバカしくなる「傑作」、だとは思う。