ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『エデン、その後』(1970) アラン・ロブ=グリエ:脚本・監督

エデン、その後 [DVD]

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  • カトリーヌ・ジュールダン
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 ロブ=グリエ初のカラー映画。前作『嘘をつく男』同様、この作品もチェコスロヴァキアとの共作なのだが、今回はチュニジアも共同製作にリストされている。じっさい、この作品前半の「カフェ・エデン」のシーンはチェコスロヴァキアでセットを組んで撮影されたそうで、そして後半は見てわかるとおり、青い空と白い家が印象的なチュニジアでの現地ロケである。

 実はこの作品、ロブ=グリエは前もって詳細なシナリオは用意しないで撮影に臨んだのだという。そのために演技の説明が要求されるキャリアのある俳優は使わず、ほとんど無名の俳優を雇った(いつもの彼の作品のように、夫人のカトリーヌ・ロブ=グリエは出演しているが)。また、各シーンを撮るにあたって撮影監督のイゴール・ルター(この人は『嘘をつく男』でも撮影監督で、この後1979年のフォルカー・シュレンドルフ監督の『ブリキの太鼓』の撮影監督でもある)と綿密な話し合いが必要だった。そのゆえにこの作品には撮影監督の考えも大きく反映されている、ということらしい。

 映画の構成に関して、ロブ=グリエシェーンベルクの「12音技法」で映画を構成できるとし、12のテーマを10セットつくってプロットとしたらしい(観たけれどもそういうことはわからなかったし、わかってもしょうがなかったことだろう)。
 また、美術の面でも、カフェ「エデン」のインテリア・デザインはモンドリアンの絵を模されているし、この映画のキーとなる小さな絵画作品について、クレーとの関連で語られる場面もあった。マルセル・デュシャンの「階段を降りる裸婦」を再現もしたらしいが、この「階段を降りる裸婦」の再現については、見ていて「このシーンかよ!」というのはあったが、「それでいいのかよ!」ってな感想を抱くのだった。

 作品として大きく「前半:エデンというカフェ」「後半:チュニジア」となるけれども、その「エデン」というカフェは大学の前にあるらしく、その大学の学生たちが集い、ドラッグに浸りながら退廃的なゲームやセックスに興じている。そのカフェは給仕のフランツ以外は学生しかいないのだが、ある日「エデン」にデュシャマン(ピエール・ジメール)というスーツ姿の「おとな」がやって来て、映画のヒロインのヴィオレット(カトリーヌ・ジュールダン)を誘う。
 ヴィオレットは誘いに乗って夜中に桟橋の廃工場へ行くのだが、その廃工場の中でデュシャマンから受け取ったクスリを飲んで「死」と「セックス」の幻覚に襲われて、道に迷ってしまう。夜が明けてようやく迷路から抜けて外へ出たヴィオレットは、海辺でデュシャマンが死んでいるのを見つける。ヴィオレットはデュシャマンの胸ポケットに「チュニジア」の絵ハガキを見つけ、持ち帰る(「エデン」の店の中にも「チュニジア」のポスターが貼ってあったのだが)。

 ヴィオレットが家に帰ると、壁に飾っていた叔父の描いた絵がなくなっていた。いつしか(いつの間にか)ヴィオレットはチュニジアへ来ていて、そこでデュシャマンとそっくりな彫刻家のダッチマンと会い、仲を深める。
 ヴィオレットが夜の焚火の前でチュニジア人の演奏する「ジャジューカ」で踊っていると、馬に乗ったターバンを被った男たちにさらわれる。男たちは「エデン」に来ていた男子学生らだった。牢獄に入れられ凌辱されるヴィオレットは、不意に現れた彼女のようにショートカットの女に救われて解放される。男たちも、その周囲にいた女たちもみんな死んでいた。
 ヴィオレットは叔父の絵を見つけ、助けてくれた女と海辺にいて、ヴィオレットは海へと入って行く。
 次にヴィオレットは家に戻っていて、「まだ何も始まっていない」といって「エデン」へと行く。いつもの顔ぶれがそろっていて、いつものように遊び興じるのだが、ヴィオレットの言葉で「ドアの向こうに見知らぬ男がきて、冷たい目でわたし達を見つめ、ドアを開けようとしていた」と語られて映画は終わる。

 書くのを忘れていたが、ロブ=グリエによれば、この作品はマルキ・ド・サドの『ジュスティーヌ』、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』とを混ぜ合わせたものだ、とも語っているらしい。
 たしかに性的な描写についてはマルキ・ド・サド的な世界観があるようにも思えたし、ヴィオレットの存在を「アリス」と考えるといろいろと楽しくはなる。また、「エデン」というカフェの名も「エデンの園」に結びつき、「チュニジア」へとつながるのだろうか。
 この映画のことをどれだけ受け止められたかと自分に問うと、自分であまりうまく答えられないだろう。ただ、この映画の中のディテールから次々に頭の中でイメージが飛躍して行って、それが新しい思考経路の端緒になるような気がしないでもない。そういう意味では「刺激的」な作品だったといえるのだろうか(それでも、セックスの描写、女性のヌードなど女性をオブジェ視するような、わたしには受け入れられないシーンもあったけれども)。
 撮られたのも「五月革命」のあとの1970年、ユース・カルチャーのヒッピー・ムーヴメントの興隆で「ドラッグとセックス」の時代ではあった。この映画、アラン・ロブ=グリエがこのときの若者たち、ユース・カルチャーをどうみていたか、という回答のようにも思えるのだった。

 アラン・ロブ=グリエの映画の編集は、その第1作の『不滅の女』からずっと変わらずにボブ・ウエイドという人が担当しているけれども、この人の「編集」の手腕というのも、相当なものだと思う。