パトリシア・ハイスミスの原作の出版が1950年のことだから、よく言われるように翌1951年にヒッチコックが映画化・公開したというのはいかにもスピーディーなこと。このときヒッチコックは「自分の撮りたい作品を自分で選ぶ権限」を持っていたので、ヒッチコック自らがこのハイスミスのデビュー作を映画化することを決めたことになる。それにしても早い。おそらくは原作が出版されてすぐに読み、すぐに映画化を決めたんだろう。この作品でデビューしたまったくの無名作家の小説を選ぶとは、ヒッチコックの選択眼の「偏見のなさ」、「確かさ」に感服すべきか(誰かヒッチコックの周辺の人間がこの作品をヒッチコックに推したのだとすれば、その人物もすごい!)。
さらによく言われるように、ヒッチコックはこの原作の「交換殺人」というアイディアに飛びついたのだということで、ハイスミスの原作のこのアイディアはけっこう画期的なものだったらしい。
しかし、ヒッチコックはハイスミスの原作の持つニューロティックな性格は「娯楽作品」には向かないと考えたのだろう。主人公のガイ・ヘインズの性格、行動を原作から大幅に変更し、特に映画の後半はハイスミスの原作とはまったく異なったものになっている。
ここで、映画のクレジットには脚本にレイモンド・チャンドラーの名前が見られるので驚くのだが、ヒッチコックは最初チャンドラーに脚本を依頼するものの完成した脚本に難色を示し、別の脚本家にリライトさせたという。そのチャンドラーの脚本も読んでみたいものだけれども。
さて、主人公のガイ・ヘインズこそ建築設計家からテニス・プレイヤーに変更されているけれども(このことは例のテニスの試合でのシーン、その観客の描写でフルに活かされるだろう)、映画の前半はかなり原作に忠実に進行していく。特にブルーノーによる遊園地でのミリアムの殺害の場面は、まさに「原作の視覚化」という感じで、原作ファンとしてはうれしい演出だった。
前半での原作との大きな違いは、ガイ・ヘインズが列車の中に忘れるのはプラトンの本ではなく、のちに結婚するアンから贈られたライターということにされていて、そのライターにははっきりと「A to G」と彫り込まれている。このライターは終盤に大きな役割を果たすことになる。
ミリアムを殺害したあとにガイの周辺にひんぱんに姿を現すのもだいたい原作通りで、ガイの姿を遠くから見守っていること、ガイの参加するパーティーに勝手に割り込んだりすることなども原作のプロットに沿っているし、さらにそのパーティーで失神して追い出される展開も原作からの踏襲だろう(失神する理由は、映画では彼の「殺人」に深く関わっていたのだけれども)。
しかし、このヒッチコックの作品がハイスミスの原作と大きく異なるのはガイ・ヘインズの性格の組み立てで、原作ではそれこそニューロティックなところのあったガイだが、この映画版ではまったく健常な精神の持ち主であり、ブルーノーから「交換殺人」を持ちかけられても「冗談じゃねえよ」という反応である。ここでミリアムが殺されたあとにガイがすぐに警察に行かなかったのは、原作と違ってガイ自身のアリバイがはっきりしないことと、ブルーノーに「警察に言えばおまえからミリアムの殺害を頼まれたと言うからな」という脅しに抗えなかったことによる。ここでガイの婚約者のアンは上院議員の娘であり、実はガイ自身もテニスには見切りをつけて政治家になろうとしているわけで、スキャンダルはどうしても避けなければならないのである。とはいっても、ミリアム殺害事件のアリバイのはっきりしないガイには警察の張り込みが始終行われているのだけれども(原作の「探偵」は登場せず、映画版では張り込みする警官がその役割を果たすようにみえる)。
ブルーノーから「早くオレの親父を殺せ」とせっつかれるガイだが、彼にはまったくそのようなことを実行する気はない。一度、原作をなぞるようにブルーノーの指示する通りに銃を持ってブルーノー邸に忍び込み、「やはりブルーノーに従うのか」と思わせるシーンもあるのだが、それはブルーノーの父親にブルーノーを病院に入れた方がいいとの忠告をするためだった。この計画はブルーノーに見破られるのだが、「ガイに父殺しをやる気はない」と判断したブルーノーは、一転して「ミリアム殺し」の犯人をガイに仕立てるべく、ガイが列車で忘れたライターを遊園地のミリアム殺害現場に置いておこうとするわけである。その計画を読んだガイは、その日のテニスの試合を「圧勝」で早く終わらせ、尾行する警官をまいて遊園地へと急ぐのである。
ここでのテニスの試合が、側溝にライターを落としてしまい必死に拾おうとするブルーノーの手と交互に映されて緊迫感を増し、「やはりこれはヒッチコック映画だ」と思わせられるのだが、ラストの遊園地、メリーゴーラウンドのシーンはもうほとんど「パニック映画」で、ここにはすでにパトリシア・ハイスミスの原作の面影はみじんもない(しかし、現場にガイのライターを置いてくることがそこまでに「決定的な証拠」になるのかというと、現代の捜査方法に慣れたわたしなどからみて、疑問に思うところもあるのだけれども)。
やはり、観終わって印象に残るのはさいしょの夜の遊園地での「ミリアム殺し」のシークエンスで、ここではハイスミスの原作を相当忠実になぞりながらも、いかにもヒッチコックという演出の冴えをみせてくれる。
まずは明かりに照らされて騒音につつまれた遊園地のメインの場があるのだけれども、ここで友人らと遊ぶミリアムと、彼女をつけるブルーノーとが接近し、また離れていく緊迫感。これがボートに乗って遊園地の中の「島」に移動すると、それまでの喧騒がウソのように暗闇と静けさに包まれる。この転換が印象に残るし、その途中には先に進むミリアムたちの姿に、うしろから迫るブルーノーの影がかぶさるという、いささか「表現主義」的な場面も見られるだろう。
じっさいの「殺し」の場面は、地面に落ちたミリアムのメガネの、そのレンズに映った映像で示されるのだけれども、このメガネはのちに、やはりメガネをかけたアンの妹(ヒッチコックの娘のパトリシア・ヒッチコックが演じている)をブルーノーが見たときに精神の均衡を失うシーンへとつながっていく。
サスペンスとしても娯楽作品としても一級品のすばらしい映画なのだけれども、やはり観終わると、ハイスミスの作品の神経症的なところというのは決して「万人受け」するものではないだろうということで、この映画で具体的に言うと「ガイ・ヘインズ」という男を、精神も肉体もどこまでも「健康」な存在、「善」なるものと描くことで、一方の「悪」を象徴するブルーノーとの対比こそを、この映画を展開させる原理としていることだろう。
観客はもちろんそんな「健全な」ガイに感情移入して映画を観、ラストのメリーゴーラウンドの崩壊と同時にカタルシスを得ることになるのだろう。
ところで、作品の中でブルーノーの母親(彼女もちょっとおかしい)は「奇妙な絵」を描いているのだが、ハイスミスの作品には「絵を描く登場人物」、とりわけ「絵を描く老女」というのがひんぱんに登場する。しかし、このヒッチコックの映画はハイスミスの第2作よりも先にできているわけで、ハイスミスが以後の作品で「絵を描く老女」というのを何度も登場させているのは、彼女がこのヒッチコックの『見知らぬ乗客』を観たことの影響によるのではないだろうかと思ってしまうのだった。
この映画では、ブルーノーを演じたロバート・ウォーカーという俳優のファナティックな演技が印象に残るのだけれども、このロバート・ウォーカーという人、どこかパトリシア・ハイスミスの小説の登場人物のような屈折した私生活をおくり、じっさいにアルコール依存症でもあったそうで、この『見知らぬ乗客』の1年後、アルコールと鎮静剤同時服用の急性アレルギー反応で亡くなられたという。この作品での演技が評判になったところだったのに、とても残念なことだった。