ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『底知れぬ愛の闇』(2022) パトリシア・ハイスミス『水の墓碑銘』:原作 エイドリアン・ライン:監督

 「エイドリアン・ラインって、まだがんばってらっしゃったんだ?」って思ったら、この作品は前作『運命の女』から20年ぶりの監督作品だという。
 どうもこの監督さんは、むかしは「おしゃれ系エロティック映画」って感じだったし、近年はあの『ロリータ』のドイヒーな再映画化とかがあって、印象はよろしくない。

 この『底知れぬ愛の闇』は、ベン・アフレックと、先日『ナイブス・アウト』で観たアナ・デ・アルマスの共演。ま、女優さんが脱がなくっても撮れる作品だろうと思うけれども、やっぱり脱ぐのだ。
 それで、設定も展開もほぼパトリシア・ハイスミスの原作通りなのだけれども、その「原作通り」に行っていないところが「問題」で、それでこの作品を観て「そうか、そういう原作なのか」と思われてしまうと、ハイスミスのファン、この原作のファンとしてはあまりにも悲しい。

 つまり、原作ではベン・アフレックの演じるヴィクは資産家で、ほとんど趣味的な「豪華本」を印刷する会社を経営し、町ではちょっとした「名士」として通っている。それで対外的な「外ヅラ」が良く、妻のメリンダ(アナ・デ・アルマス)が外から来た男と親密に付き合っても、そこまでに嫉妬する面は見せないでいる。だから町の人はヴィクのことを信頼しているというか、そこで互いにパーティーを開いて招き合い、「いい関係」が出来ている。そういうところが大事なところなのだけれども、それでも陰では激しい嫉妬心、相手の男への「殺意」を抱いているわけ。このヴィクの「二面性」がポイントなのだが。
 しかし、この映画ではどこまでもヴィクの「嫉妬心」を前面に描き、さほどには町の人との交流は描かれない。これでは普通に「浮気性の妻と嫉妬深い夫」の話で、ことさらに特殊な話でもない。そんな話はパトリシア・ハイスミスは書かない。

 いちおう、ヴィクとメリンダの6歳になる娘のトリクシーとか、飼っている犬のロッキーとか原作通りの設定で登場するし、ヴィクが「かたつむり」を飼育しているというのも原作通り(作者のパトリシア・ハイスミスの趣味がじっさいに「かたつむりの飼育」だったというのは有名な話)。そういう、「町の人との交流」を抜かしての展開は、ヴィクの「第一の殺人」(「事故死」ということになっている)も「第二の殺人」(死体は見つからず、「行方不明」になったのだ)も同じように展開、進行するのだけれども、「第一の殺人」では原作通りに「夫のヴィクが殺したのではないか」と激しく詰め寄るメリンダだが、映画では「第二の殺人」ではメリンダはすぐにヴィクへの追及をやめ、ヴィクとの関係を修復させようとしてしまうかに見える。
 まあ原作もそういう流れはあるけれどもメリンダには「裏」があるし、ヴィクはそのとき、「自分がまったくメリンダを愛していない」ということに気づくのだ。原作での、このあたりの娘のトリクシーを交えての家族のやり取りはシニカルなユーモアにあふれていて、「さすがハイスミス!」と、読んでいて大笑いしたのだったが、この映画版にはそういう、原作にあった「夫婦互いの屈折した心理」というものはまるっきし描かれない。
 はっきり言って「これはやっぱり<ハズレ>だな」とは思いながらさいごまで観続けたのだが、これが「びっくり!」というか、ラストがハイスミスの原作と異なっていたのだった。

 「どう異なっていたか」を書くと、自然と「ネタバレ」になってしまうので、わたしとしては書かないが、まあ原作のハイスミスらしい「人の心理の歪み」からすっかり離れてしまい、「それでは別のお話ではないか」ということになってしまっているが、まあパトリシア・ハイスミスといえば近年は「イヤミスの女王」とか呼ばれたりもしたようで(すでに忘れられた呼称だろうが)、つまり「イヤミス」とは「イヤな感じのミステリー」のことで、ハイスミスの作品は読後感が「えげつない」というか、いわゆる一般のモラルから離れて「そんなことで人を殺すなよ」とか「この人、悪くないのになんで死んじゃうの?」とか、一読して「納得の行かない」作品が多いわけで、ま、わたしなどはそういうパトリシア・ハイスミスの作品が大好きだったりするのだが、それがこの映画版(のラスト)はそういうハイスミス作品の「イヤ~なところ」が中和されたというか、実はわたしはけっこう思いがけずも「スッキリ」してしまった。

 それで思ったのは、「そうか、このエイドリアン・ラインによる映画化は、<いちど原作を読んでいる人>に向けてつくられた映画、なのではないか」ということだ。
 この映画だけ観たのでは、「そこまで屈折したわけではない(まあ、多少は屈折してるが)<嫉妬>ドラマ」という感じもあるが、原作を読んだ後にこの映画を観ると、ハイスミスの描く「ねじくれた世界」が180度回転し、それじゃあ「ノーマルな世界」になったのかというとそうではなく、さらに別方向に90度ぐらい回転し、パトリシア・ハイスミスの描く世界とは「別モノ」ながらもハイスミスと「対」になって、これはこれで楽しいのではないかと思ってしまうのだった。