原作は1938年に初演されたトーマス・ジョブ作の舞台劇で、1942年にはブロードウェイで430回上映されたというヒット作。これを『幻の女』のプロデューサー、ジョーン・ハリソンが、ロバート・シオドマクとの次の作品に選んだ。
しかしユニヴァーサル・スタジオの製作部長が「映画監督協会」の検閲を通過させるため、ラストの再編集、撮り直しを要求したという。伝えられるところでは5つの異なるエンディングが考えられたというが、シオドマク監督は強引なエンディングの撮影を拒否し、公開されたものはシオドマク監督のアイディアによるものだったという。
先に書いておけばこの映画は興行的に振るわず、ラストの改変が気に入らなかったプロデューサーのハリソンはユニヴァーサルとの契約を解消し、RKOへ移って行った。しかし近年この映画の評価は上昇し、「印象的な演技と興味深いテーマを持つ、この種の映画としては完璧な小品」という批評もある。
ハリー・クィンシー(ジョージ・サンダース)はニューイングランドの小さな町の織物工場でデザイナーとして働いている愛想のいい独身男性で、町の人には「ハリーおじさん」と呼ばれている。
彼の家は町の落ちぶれた旧家で、残った財産の屋敷に姉のへスター(モイナ・マクギル)と妹のレティ(ジェラルディン・フィッツジェラルド)と、家政婦のノナとで暮らしている。へスターは夫が死去し、今は独り身である。レティはいつも「体調が悪い」と寝てばかりいるが、へスターは「それは仮病だろう」とレティをなじるのだった。
ハリーの職場に新しくデボラ(エラ・レインズ)がニューヨークから赴任してきて、その後ハリーとデボラとは急接近し、ついには婚約することになる。家の姉妹にも話をして、姉妹は屋敷を出て新しい家を探すことになるのだが、レティはどんな新しい家も気に入らず、ハリーの婚約後半年を経ても屋敷から動こうとしない。
思いあまったハリーとデボラは、町を出てニューヨークで結婚して暮らそうと計画するのだが、そんなときレティが教会で倒れて病院に運ばれ、計画はとん挫する。
デボラはハリーに「レティとわたしとどちらを選ぶの?」と迫るが、ハリーは「病気のレティを置いてはいけない」という。失望したデボラはハリーのもとを去ってしまうが、その知らせを聞いたレティはとたんに元気になってしまうのだった。へスターは「デボラが行ってしまったのはあなたの責任だ」とレティを責め、レティは「もともと若い女性はハリーにふさわしくなかった」と、二人は激しい口論になるのだった。
ハリーもまたレティと話をして、彼女の考えにはうんざりしてしまうが、そんなときレティの引き出しのなかに、病気だった飼い犬を安楽死させるための毒薬を見つけるのだった。
「もうレティと暮らしていくことはできない」と思ったハリーは、皆で飲むココアのレティの器にその毒薬を入れる。しかしその毒薬はへスターが飲むこととなり、へスターは死んでしまう。
へスターは毒薬を飲んで死んだことが判明し、家政婦のノナは「レティはいつもへスターとけんかをして彼女を憎んでいたから、レティが毒を盛ったのだ」と警察に話す。ハリーもノナに同意し、裁判の結果レティは死刑判決を下される。
後悔したハリーは警察に「自分が犯人だ」と訴えるが、「妹を助けるための狂言」だと取り合ってもらえない。さいごにハリーがレティに面会に行ったときレティは「あなたはこれから夜な夜な妹を死に追いやったことに苦しむことになるのよ」と語るのだった。
さて、映画にはまだつづきがあるのだが、映画のラストに「観客皆に楽しんでいただくため、ラストのネタバレはお控えください」との文句が出てくるので、わたしもネタバレをすることはやめておきましょう(「そりゃあインチキや!」という感想も浮かばないではないが)。
善人が理不尽に追い詰められ、殺人に走ってしまうという展開は、きのう観た『容疑者』に似ているのだが、この作品では兄と妹との精神的近親相姦が描かれていて興味深い。そしてここでもやはり、ジェラルディン・フィッツジェラルド演じる妹の、歪んだ心理の演技、そしてその演出が見事である(ラストのハリーとの面会シーンが恐ろしい)。また、ジョージ・サンダースの抑えた演技もまた、見どころではあるだろう。デボラ役のエラ・レインズも、へスター役のモイナ・マクギルも、さらに家政婦のノナも良いが。
やはりここでもドラマは古い屋敷の屋内で進行し、もうこれはシオドマク監督の「お得意」であるだろう。
この映画はサスペンスとは言えるだろうけれども、それよりも優れた「心理ドラマ」として、わたしの記憶に残る作品になるだろう。