『太陽がいっぱい』(1960)のあと、ルネ・クレマンはアラン・ドロンを主演に迎えて『生きる歓び』(1961)と、この『危険がいっぱい』(1964)の2本を連続して撮っている(ついでにいえば、次作の『パリは燃えているか』(1966)にもアラン・ドロンはちらっと出演しているようだ)。
ルネ・クレマンは映画監督のキャリア40年で17本しか作品を撮っていない、どっちかというと寡作な監督なわけで、そんな中でアラン・ドロンへの入れ込みようはやはり「特別」だったみたいに思える。それだけ、『太陽がいっぱい』の世界的大ヒットが忘れられなかったのかもしれない。
しかし、『生きる歓び』はわたしは未見だけれども、どうやらライトタッチの「青春コメディ」というような内容らしいし、この『危険がいっぱい』もまた、「クライムもの」だとはいえ、(先に書いてしまうが)どこかおちゃらけた空気感のある、すっとぼけた感じの作品みたいだ。
せっかくアラン・ドロンを使うのだから、『太陽がいっぱい』を踏襲した、シリアスなクライム・サスペンスを撮ってほしかった気がしてしまう。
それでルネ・クレマンも反省したのか、次のチャールズ・ブロンソン主演の『雨の訪問者』(1969)はシリアスなサスペンス・ドラマに回帰して、久々に世界的なヒット作となり、以後はずっとサスペンス・ドラマを撮りつづけられるのだった。
そういうのでこの作品を観て、せっかくの「クライムもの」なんだから、もっとシリアスなサスペンス色を前面に出せばよかったのに、とは思ってしまうのだけれども、そもそものプロット自体が、シリアスにはやりにくいものではあったか。
そもそもこの映画、前年の1963年にフランスの映画プロデューサーのジャック・バーがМGМの出資を得て『地下室のメロディー』をつくり、それが大ヒットしたことから始まるのだけれども、МGМ社は当時アラン・ドロンはフランスとイタリアで知られただけの俳優だとして、彼を出演させることに疑問を呈していた。それが大ヒットしたものだからМGМ社はアラン・ドロンへの評価を180度改め、以後何本かのМGМの映画にアラン・ドロンを連続して起用するのである。
この『危険がいっぱい』もМGМ映画で、プロデューサーは『地下室のメロディー』のジャック・バーとなり、監督はルネ・クレマンになったようだ。
МGМ社はアメリカでのヒットも意識して、アメリカで売れたデイ・キーンの小説『ジョイ・ハウス』を原作とし、アメリカの新人女優のジェーン・フォンダ、そしてテレビでも人気のあったローラ・オルブライトをキャスティングしたのだった。
ルネ・クレマンとしてはどうもこれは「雇われ仕事」で、自分のモティヴェーションも発揮しずらかったのではなかったのか(このあたりの「裏事情」はよくわからないが)。この作品の脚本家はルネ・クレマンの演出を批判したようだし、どうもルネ・クレマンは撮影中にジェーン・フォンダにセクハラ的に迫ったりもしていたという。
ストーリー展開をかんたんに書いておけば、ばくち打ちのマルク(アラン・ドロン)はマフィアのドンの妻に手を出してマフィアに消されかかるが、なんとか逃げおおせる。そこで屋敷に住む大富豪の未亡人バーバラ(ローラ・オルブライト)の運転手に雇われて、その大きな古屋敷に住むことになる。屋敷にはバーバラの従妹の若いメリンダ(ジェーン・フォンダ)も同居しているが、メリンダはマルクに惚れてしまうのだった。
バーバラには秘密があり、2年前に愛人のヴァンサンに富豪であった自分の夫を殺させ、ヴァンサンをずっと屋敷内の秘密の隠し部屋にかくまっていたのだ。マルクを雇ったのは、マルクのパスポートを使ってヴァンサンと共に南米へ高飛びしようという計画、もちろんマルクは消される予定なのだ。
メリンダなど目にもかけず、けっこうバーバラに夢中になってしまったマルコだったが、ふとしたことからバーバラの計画を知ることとなり、「ではヴァンサンを殺して、自分がバーバラと南米へ行こう」と考え、バーバラを誘惑し始める。
バーバラとマルコの関係を疑ったヴァンサンが出てきて、つまりはバーバラを撃ち殺してしまうのだが、ちょうどそのとき、マルコの居場所を突きとめたマフィアの連中が屋敷に踏み込んできて、マルコと同じ服を着ていたヴァンサンを射殺してトンヅラするのだった。
さて、屋敷に残ったのはマルコとメリンダ。メリンダに興味がないマルコは屋敷からひとりで逃亡しようとするのだが‥‥。
悪人ばかりが登場して、ストーリーが二転三転する展開とか、ひねりが効いてて面白いとはいえる。ただ展開はあまりに非現実的で、シリアス路線は取りにくかったわけだろう。「そんなバカな!」という展開を描くのに、わたしはこのルネ・クレマン監督の演出はまちがってはいないだろうとは思うけれども、それで「シリアスさ」は犠牲にしなければならなかったわけだろう。特にジェーン・フォンダの役には「調子いいよね」というコミカルさも持たせてるわけだ。
しかし映画の中でバーバラとヴァンサンとの関係とかはある程度シリアスに描かねばならず、そのあたりでメリンダの描写との整合性がちょっと危うい気がした。さらに、そんなシリアスなバーバラと、ちょっとぶっ飛んでるメリンダとのあいだに置かれるマルコ、いや、アラン・ドロンは、「『太陽がいっぱい』みたいにシリアスに演じるのか、軽妙洒脱に、ライトに演じるのか」とのはざまで、どうも泥沼に足を突っ込んでしまっているようにも感じられる。
気のきいたラストシーンで「そんなことはもうどうでもいいな」、という映画ではあるけれども。
撮影は『太陽がいっぱい』と同じくアンリ・ドカエで、終盤のマルコとバーバラとヴァンサンとの「追い詰め合い」のシーンでの、屋敷の中に張りめぐらされた「鏡」をうまく使っての撮影は、「さすが、アンリ・ドカエ!」というところだっただろう。