ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『箱男』 安部公房:著

 なかなかに感想を書くのも難しい本だけれども、この小説のひとつのテーマ、「見る」「見られる」、そして「覗く」「覗かれる」という関係性について考えていたら、去年の暮れに「お騒がせ」ニュースになった、「生まれ変わったら道になりたい」と供述した「側溝男」のことを思い出したりしちゃったのだった。
 ‥‥この「側溝男」さん、道沿いに側溝があると、もうどうしてもその側溝の中に身を横たえずにはいられないという、これはもう「性癖」というのか「オブセッション」を抱えた人物。「なぜ側溝に横になるのか」といえば、それはもう側溝の上を歩くであろう女性のスカートの中を覗くのだ、という高邁な目的があるわけだけれども、その公判では「中学時代から22年間で1000回以上側溝に潜み、女性の下着をのぞき見る行為を繰り返した」とされたらしいのだ。ここまでくると「女性のスカートの中を覗く」ということは二の次で、「側溝の中に横たわる」ということこそ目的化してるのではないか、とも思うのだ。
 そういうところで「段ボール箱の中から外界を覗く」この「箱男」の同族、と言っちゃいたくもなるのである。そして「側溝男」も「箱男」も、いわゆる「人間」であることを逃れ、「匿名性」のなかに生きようとしたのではないか、とも思える。
 はたしてその「側溝男」さん、彼が見た「世界」というのはどういうものだったのか、どんな妄想が彼の頭の中で渦巻いでいたのか、しっかりと「聞き取り」をしてみたいという誘惑に駆られてしまうのだ。その「聞き取り」は、この『箱男』のように「覗く」という視点からの、独自の世界観をあらわさないだろうか。

 ‥‥ということも面白いのだが今は置いておいて、『箱男』の感想を書かなければならない。
 先にもちょっと書いたが、この小説のテーマは「見る」「見られる」、そして「覗く」「覗かれる」ということの関係性にあるとはいえるだろうけれども、もうひとつ大きな問題として、「このテキストを書いているのはいったい誰なのか?」という謎があるだろう。
 たんじゅんに考えれば、そりゃあつまりは「箱男」が書いているわけだろうということだけれども、この小説の中では「箱男」、そして「贋箱男」とが出てくるわけで、ときどき「どっちがどっちだか」わからなくもなるし、そもそもそれ以前に、この小説を書いているのは「安部公房」という作者ではあるわけだ。
 ここで考えるべきは、「箱男」イコール「安部公房」ではない、「安部公房」が書いているというわけではない、ということで、これはこの小説を考える上ではけっこう大事なことに思える(これは「小説一般」の世界ではあたりまえのことともいえるけれども)。はたして安部公房は、いったい何に託してこの作品を書いたのだろうか。

 『箱男』のストーリーを書くことはわたしには不可能に思えるが、まず、カメラマンのAという男が自分の住まいの2階の部屋の下に「箱男」が住みついていることを知り、その「箱男」を空気銃で狙撃する。空気銃の弾はたしかに「箱男」の肩に命中する。
 しかしその後A自身がいつしか「箱男」になっているし、その贋者である「贋箱男」もまた存在しているようだ。読んでいてもその「箱男」と「贋箱男」とは実は入れ替わってしまっているのではないか、と思うときもあるし、「箱男」はAではなく、さいしょにAの住まいの下にいた「箱男」なのではないかという疑いもある。さらにまた、この「作品」を書いているのは誰なのか?という大きな問題。
 そしてページが進むと今度は「贋医者」も登場し、彼が「贋箱男」ではないのか?という疑いも浮かぶ。そして「箱男」と「贋医者」、そして「箱男」に接近してくる看護婦との三人の、濃厚な関係が描かれる(この部分こそ、この作品の「キモ」ではないかと思われるが)。
 作品の後半には、それまでの展開とは独立して、手製の「アングルスコープ」なるもので隣家のトイレを覗き見しようとする少年Dと、彼が覗き見しようとした女教師との「挿話」、自分の結婚式のために段ボール箱をかぶって父の乗る馬車をひく、父に「ショパン」と呼ばれる男の「挿話」がはさまれたりもする。

 とりあえず読み終えて、この「覗く」~「覗かれる」という関係性から、その「物語」の解体の手順からも、あのアラン・ロブ=グリエの作品を思い浮かべたりもしてしまう。
 途中の「箱男」と「贋箱男」との対話で、「贋箱男」が「このノートは、何処で誰かが書いていることになるのかな?」と語ると、「箱男」は「それを言ったら、あんたたち自身、ぼくの空想の産物にすぎないことを自分から認めてしまう事になるんだぞ」などと語ったりする。
 まあ「メタ小説」の面目躍如というところでもあるけれども、安部公房自身「この作品は読み返されるべき」ということを語っているようで、たった一度読んだだけでこうやって「感想」を書こうとしているわたしは、いかにも無謀なことをやろうとしているのだ。
 わたしが読んだ文庫本の巻末には、平岡篤頼氏による「解説」が付されているけれども(彼はアラン・ロブ=グリエの翻訳でも知られている)、わたしにはどうも「見当違い」なことを書かれているように思えて、この一回目の読書では参考にならなかった。