原題は「The Limehouse Golem」で、ピーター・アクロイドによる原作は邦訳も出ているが、「ライムハウス」とはロンドンの船着き場で、「貧民街」でもあったらしい。「ゴーレム」については、ユダヤ教の伝承とはまるで無関係のようだ。しかし、この作品にはカール・マルクス、ジョージ・ギッシングというあまりに著名な人物が登場してきて、しかも「容疑者」として取り調べを受けたりするし、劇場の人気スター、ダン・リーノという登場人物もまた、実在の人物だったようだ(この作品でそのダン・リーノを演じているダグラス・ブースという俳優は、この作品のあと『メアリーの総て』ではパーシー・ビッシュ・シェリーを演じているのも面白い)。
そもそも、この事件の捜査が、大英図書館所蔵のド・クィンシーの「On Murder Considered as one of the Fine Arts(芸術の一分野として見た殺人)」という稀覯本に犯人によって書き込まれた「日記」から始まるのだから、イギリス文学好きな観客にはたまらないだろう。
映画で描かれるのは1880年のことで、映画には当時の雰囲気もよく出ているし、連続殺人の犯人を捜査するミステリーの要素、そして「ゴシック・ホラー」的な面白さもいっぱいある。
事件を捜査するジョン・キルデア警部補は当初、アラン・リックマンに配役されていた。彼がガンに侵されていることがわかって降板し、ビル・ナイが引き継いだが、アラン・リックマンは映画公開前に死亡。この作品はアラン・リックマンに捧げられた。
そのジョン・キルデアと、もう一人の主役格は、ダン・レーノの芝居小屋「ミュージックホール」で人気のめきめき出て来ていた女優のリジー(オリヴィア・クック)で、キルデアによってその連続殺人犯「ゴーレム」の捜査が始まったとき、彼女は夫のジョン・クリーを毒殺した容疑で逮捕され、裁判にかけられていた。しかし「ゴーレム」の容疑者の一人にそのジョン・クリーが含まれてもいたし、リジーの裁判を傍聴して彼女の境涯に同情したキルデアは、彼女の話を聞くうちになおさら、何としても彼女を絞首刑から救いたいと思うようになるのであった。
捜査はある意味単純なもので、先に書いたド・クィンシーの本に書き残された犯人の特徴のある筆跡を、容疑者それぞれの筆跡と比較するわけだ。真っ先にマルクスとレッシングは容疑者から外れ(そりゃあそうだろうが、映画では「もしも」という感じで、マルクス、レッシングが犯人だったらば?という描写があって面白いといえば面白い)。
キルデアが死んだジョン・クリーの筆跡を調べるために彼の書き残したものを探すのだが、彼は「未完」と思われていた「不幸の接点」という戯曲を書き上げていた。それを発見したキルデアはその筆跡が「ゴーレム」と一致することを確認。すべての犯人であったジョン・クリーは自ら毒をあおった「自殺」であった、という仮説により、絞首刑の時間の迫った牢獄のリジーのもとを訪れるのだった。しかししかし‥‥。
いやあ、わたしもこの真相はわかっていなかったけれども、そこでわかる「真相」にしても、どこまでが真実なのかということはわからないし、ダン・レーノの劇団がラストで劇場でやっていたのがまさにジョン・クリーの遺作「不幸の接点」であったこと、その内容がまさに、この映画のラストとダブルでかぶること、そしてその舞台で「事故なのか故意なのか」という事故での死者が出ることなど、ひとすじなわでは行かないのである。ラストの、キルデア(ビル・ナイ)の表情もまた、ダブルミーニングなのであった。
‥‥と、ストーリー展開は実に面白いようなのだが、この映画の110分にすべて盛り込むには尺が足りなかったか、特に終盤で「そうだったのか!」という余韻に浸る間もなく、ちゃっちゃっと幕引きを急いだようだったことが惜しまれる。監督のフアン・カルロス・メディナという人については、まったくわからない。
舞台となる19世紀末のロンドンの様子、「ミュージックホール」という劇場の内部など見事に描かれていて、セット美術も照明も素晴らしかった。時間があればもういちど、ゆっくりと鑑賞したい映画だった。