ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『メリー』(1931) アルフレッド・ヒッチコック:監督

 ヒッチコックは『殺し!』という作品を撮り、1930年にイギリスで公開するのだけれども、その『殺し!』の撮影時に、同じセットを使ってその『殺し!』のドイツ語版を撮るのだった。それがこの『メリー』。
 今だったら「吹き替え」で済んでしまうわけだけれども、このトーキー映画の黎明期にそのような技術もなかったわけで、別の言語のヴァージョンを撮るとなると、同じセットを使って俳優だけを取り換え、基本は同じ演技をやってもらうのがいちばん効率的、経済的ではあったのだろう。
 当時このようなやり方で、マルチ言語版の映画を並行して撮るということがどのくらい行われていたのかはわからないけれども、とにかくは製作の初期の段階で決められていたことではあるだろう。
 ただ、それこそ「吹き替え」のように何から何まで同じにはつくられてはいなくって、上映時間も『殺し!』は104分(日本版Wikipediaによる)だが、『メリー』は82分(英語版Wikipedia)と、20分以上の差異がある。少なくともラストには異同があるようだが、あとはシーンごとにも多少なりとも差異は出たことだろう。

 物語はやはり殺人事件があり、その現場にいたメリーが犯人として逮捕されるのだけれども、そのとき陪審員をやっていた、メリーをよく知る男が「いや、やはり彼女は犯人ではない」と、事件の真相を究明しようとする話であり、そういう意味では「サスペンス色」はちょっと希薄かな。
 たいていの事件の関係者は、犯人とされた女性も殺された女性も、皆同じ劇団の役者であり、究明する陪審員のサー・ジョンもまた、劇団のプロデューサー・劇作家・俳優なのである。サー・ジョンは殺人現場のとなりの部屋にいた舞台監督とその妻の協力を得て、いろいろ調べるのである。
 ただ、ヒッチコックの作品には珍しく、犯人は映画の半ばになってようやく姿をあらわすので、観ていて「あいつが犯人なのに!」とか思いながらというわけにはいかない(それまでは、別の男が犯人だとミスリードさせられる)。

 それと、これは英語ドイツ語で2回同じものを撮らなければならないからか、「派手なアクション」とか、大きな動きというものがほとんどなく(最後にサー・ジョンの追及に追い詰められた「真犯人」の行動は、大きなものだったが)、その代わりに「セリフ」での説明が大変に多かった気がする。そういう意味でも、これまでに見られた「ヒッチコックらしい演出」というものがちょっと希薄だった印象はある。

 おかしいのは、舞台セットは英語版と同じセットを使っているので、役者がしゃべっているのはドイツ語だというのに、壁に貼られているポスターなどはみんな英語のままなわけで、「さすがにそこまでドイツ語に差し替えることはやらなかったのだな」とか思うのだが、そこに貼ってある、今その劇団が上演している劇が「Nothig but the Truth」というタイトルなのが何となくおかしいというか、この映画のタイトルにしてしまってもいいようでもあり、この映画全体がほとんどセット撮影なこともあって、「映画全体がその演劇なのだ」というか、「映画のフリをしているけれども、この作品全体が実は舞台で演じられている演劇なのだ」というような「メタ」なつくりなのではないのか、などとは思ってしまうのだった。
 あと、映画のオープニングがベートーヴェンの「運命」だったので、ちょっと笑ってしまった。